曹操の墓が発見された!?
曹操の墓とされる「西高穴2号墓」(ウィキペディアより引用)
曹操の墓は長年に渡ってどこにあるのか論争になっていました。
曹操の墓は2009年に発見され、その後に曹操のものだと断定されました。
場所は「河南省・安陽市(カナンショウアンヨウシ)」で当時「鄴」と言う都市が置かれていた所です。
群雄割拠の時代となって鄴は袁紹(エンショウ)の支配下にあり、本拠地となっていました。
しかし、曹操が官渡(カント)の戦いにおいて袁紹に大逆転すると、袁紹が死んで、勢力が弱まるのを待ってから鄴を攻め落としました。
そののち曹操は「鄴」を本拠地として使い、正史三国志においてしばしば「鄴に帰る」といった記述が見られます。
曹操はやがて皇帝への前身ともなる「魏公」の位を後漢の献帝から受けます。
そして、「魏」の地方の領土を与えられました。
「魏」地方で要所となっていた「鄴」を本拠として選択したのは自然な流れでしょう。
墓の場所が当時の首都だった「許都(キョト。曹操に庇護を受けた後の献帝の所在地)」ではなく「鄴」を選択したのもそれが理由だったのだと思います。
さて、墓の中には4つの遺体がありました。
これは、曹操と曹昴(曹操の長男)、曹操の妻2人であるとのことです。
曹丕の父親(曹操)への配慮
曹丕の唐代の絵画(ウィキぺディアコモンズより引用)
結局皇帝にはならずに亡くなった曹操ですが、息子の曹丕(ソウヒ)は魏の初代皇帝となっています。
曹操は生前自分の墓は簡素にせよと遺言を残していました。
とはいえ、曹丕は偉大な父親の墓を簡素にする訳にも行かず、大きな陵墓を作ったそう。
墓にはその後もあったそうですが、何回か取り壊されている形跡があるとのこと。
これは、墓荒らしが曹操の墓を掘り返し、装飾品を奪うのを防ぐために、墓の場所を分からなくするために曹丕が指示したと考えられています。
曹丕はかなり曹操に配慮したと言えるでしょう。
また、曹操は歴史好きでも知られており、春秋戦国時代に活躍した武将の西門 豹(セイモンヒョウ)の墓の近くに作るよう支持したとのこと。
簡素な墓を好んだり、憧れの英雄の近くで眠りたいと考える所など、いかにも曹操らしい一面と言えるのではないでしょうか。