【竹島問題】日本・韓国の領土問題の争点や解決策はあるのかを解説

「竹島問題」をご存知でしょうか。

「日本と韓国が揉めている領土問題」というイメージをお持ちの方は多いと思います。

今回は、竹島がなぜ日韓問題の1つになっているのか、そもそも韓国はなぜ領有権を主張しているのかを解説します。

竹島の歴史

竹島は、2つの島とその周辺の小さな島々を合わせた総称です。

日本は数百年前から竹島を認識しており、漁獲地として利用してきました。

1600年代(江戸時代初期)には、江戸幕府が領有権を確立しています。

1905年に島根県の領土となり、竹島に関する当時の閣議決定の資料も残っています。

1900年代に入ると、日本は海外の多くの領土を併合・編入してきましたが、太平洋戦争に敗れたことでそれらの領土を失いました。

太平洋戦争終結後のサンフランシスコ平和条約において、日本は朝鮮の独立を承認しました。

同時に、放棄すべき地域に済州をはじめとする日本が放棄すべき領土についても規定されます。

一方で、竹島は放棄すべき領土には含まれていません。

竹島の領有権を主張した韓国に対し、アメリカは「竹島は歴史上、朝鮮の領土として扱われたことはない。これまで朝鮮が領有権を主張したことはない。」との回答を示し、韓国の訴えを却下しています。

しかし、韓国はこれを無視し、1952年より日韓の海の国境を定めました。

現在では韓国軍が竹島を実効支配しています。

こうした韓国の一連の国際法違反に対し、日本は再三にわたり国際司法裁判所の判断を仰ごうと提案していますが、韓国はこれを拒否しています。

内閣官房 領土・主権対策企画調整室|国際社会の法と秩序を尊重する日本の対応

竹島の領有権をめぐる両国の主張

日韓両国は何を根拠に領有権を主張しているのでしょうか。

日本の主張

日本は、国際条約を根拠に竹島の領有権を主張しています。

先ほども触れましたが、サンフランシスコ平和条約で竹島は日本の行政権を離れませんでした。

数百年に渡り支配し続けてきた領土の領有権を放棄する根拠がどこにもないため、日本固有の領土であると長年主張し続けています。

韓国の主張

対する韓国は、「李承晩ライン」を根拠としています。

当時の大統領の李承晩が定めた国境のことを指すのですが、国際的に認められたわけでも歴史的な根拠があるわけでもなく、韓国が自ら定めた国境です。

歴史上韓国は竹島の領有権を主張したことはなかったのですが、太平洋戦争後いきなり「竹島は韓国のものだ。」と主張しています。

また、韓国本土から近いという主張もしていますが、特定の島がどこに帰属するかを決定する上で本国との距離は考慮されないことは国際司法裁判所の判例から明らかです。

解決策はないのか

竹島の歴史と現状を解説しましたが、解決策はあるのでしょうか。

結論から申し上げますと、平和的な解決は非常に難しいです。

竹島の領有権を主張する韓国に対し、日本は国際法に従った平和的な解決を目指しています。

竹島および領海内での活動があるたびに抗議してきました。

1954年、竹島の領有権はどちらにあるのかを国際司法裁判所(ICJ)に付託することを韓国へ提案しましたが、韓国側は「領土問題は存在しない。」としてこれを拒否しました。

国際司法裁判所は、訴えに対し両国の合意がなければ審議を開始しない仕組みとなっています。

そのため司法の場に進めず、こう着状態となっているのが現状です。

まとめ

竹島は、日本固有の領土です。

自国の領土が他国に支配されている状況に無関心にならず、平和的な解決を求め続けることが大切です。

【緊急事態条項】コロナ対策で再び議論されている自民党の改憲案を解説!

中国武漢市での感染拡大を皮切りに、世界中で新型コロナウイルスが大流行。

日本国内での累計感染者数は75万人を超え、世界では1億7千万人と、2億人に迫る勢いで感染が広まっています。(2021年5月末現在)

そんなコロナ禍で「緊急事態条項」というワードが話題となっています。
今回は、「緊急事態条項」とは何なのか、成立すると何が変わるのかを解説します。

コロナとどのような関係があるのでしょうか。

緊急事態条項は憲法改正案の1つ

緊急事態条項は、2012年に自民党が発表した4つの憲法改正案の1つです。

災害や戦争が起きた際、内閣が直接法律と同じ効力を持った政令を出せることを定めた内容です。

普通、法律は国会で可決した後に初めて効力を発揮します。これは日本国憲法によって決められており、権力者が暴走して独裁的な国の運営がされるのを防ぐためのものです。

日本国憲法では、法律や政令が効力を持つためには国会の承認が必要だと明記されています。

また、憲法は「最高法規」つまり、全ての法律の上位に存在するものです。

憲法を変えずに緊急事態条項を制定しても、効力を発揮すると憲法違反になってしまう状態なのです。

そのため、自民党を中心とした憲法改正案の1つに盛り込まれています。

海外では採用されている?

緊急事態条項ですが、海外ではどのような形で採用されているのでしょうか?

ドイツ

ドイツには緊急事態条項が存在しますが、発令時にどのような対応となるかが明記されています。
これは、第二次世界大戦時に権力が集中したことの反省だと言われています。

「緊急事態を発令した場合にどうなるか」というところまで、個別の法律で規定されているのです。
つまり、発令時されると「A法はこのように変わる」「B法は効力がなくなる」など、細かい法律があります。

アメリカ

アメリカは大統領の権限が非常に強い国です。
戦争の手続きや非常時の対応も原則として大統領ができます。

ブッシュ政権がイラク戦争を決断した際に国家緊急権が話題となりました。

韓国

韓国では1970年代後半まで、大統領が非常事態を乱用する歴史が続きました。

立憲政治を正常化するために、憲法裁判所が緊急措置を慎重に審査することもあります。
しかし、汚職や私権の乱用などで大統領が逮捕される例はいまだにあります。

緊急事態条項の成立で何が変わるの?

緊急事態条項、賛否両論を呼んでいます。

【メリット】賛成派の意見

日本国憲法には、国会が機能しなくなるほどの非常事態時を想定した記述がありません。
大災害や戦争が発生した時には、一瞬の判断に大勢の命がかかっています。

そんな非常事態に国会を招集し、法案の成立を待つという従来の方法では、潜在的に国益を損ねる可能性があります。

特に国防に関しては、首相の一言で自衛隊を動かせるような仕組みがなければ非常事態の初動が遅れてしまうかもしれません。

【デメリット】反対派の意見

緊急事態条項が成立すると、首相の権限で国民の行動を制限することができます。

仮に私的な理由でこの権限を行使するような首相が現れた場合、国がファシズムの流れに傾いてしまうのではないかという懸念があるのです。

さらに、現行の憲法でも非常事態に十分対応できるとの考えもあります。

例えば、2012年には新型インフルエンザ対策特別措置法、2020年にはコロナ特措法を制定しました。
この法律によって債務支払いなどの延期がなされました。

この措置は、災害対策基本法にしたがって盛り込んだ内容であり、現行の憲法でもなんら問題はないとする意見もあります。

緊急事態条項とコロナの関係

新型コロナウイルスの感染拡大に伴って、緊急事態条項が必要だという声が再び上がりました。

先ほど解説したように、国会は、2020年3月にコロナ特措法を制定しています。(正確には、新型インフルエンザ対策特別措置法の一部をコロナにも適応しました。)

これによって私権の制限が一部可能になりました。

緊急事態条項の制定賛成派は「医療体制の脆弱さ」を訴えています。

一方で、護憲派は「憲法が問題なのではなく、憲法を遵守しようとしないことが問題だ。」と主張しています。

「国民の生活よりもオリンピックを優先することは、憲法25条、生存権で明記されている生活の保障をしていないなではないか?」

との声も上がっているのです。

緊急事態条項の賛成派・反対派、双方からさまざまな主張が飛び交っているように、「コロナ」とは切っても切れない関係があります。

まとめ

日本国憲法制定から70年以上が経過しています。

これは、改正されていない憲法としては世界最古のものです。

「憲法」は国民の権利を守るために存在します。

そのために改正が必要なのか、現行の憲法を保持すべきなのか、どちらの立場であってもその目的と意義を理解した上で考えることが大切です。

【アレクサンドリア】古代エジプトの首都。図書館やムセイオンを建設

アレクサンドロス大王が建設した都市アレクサンドリアは、後世にまで大きな影響を与えました。
特に、ムセイオンでは多くの研究者を輩出し科学技術の発展に貢献しました。
さらに、宗教を語る上でも重要な都市です。

アレクサンドロス大王の都市建設の目的

アレクサンドロス大王は、遠征中に自らの名をとって「アレクサンドリア」という都市を建設しました。

制服地に都市を建設し自分の名前をつけるというやり方は、父のフィリッポス2世に倣ったものです。

各地に都市をつくった目的は、ギリシア文化を普及することや軍事的な拠点を置くことでした。

建設された各アレクサンドリアには多くのギリシア人傭兵が入植します。

特に、マケドニアからみて東方の制服地は当時最果ての土地でした。

ローマ時代の作家ユスティヌスが「軍の中で反抗的と見なした者たちを配分した」と述べているように、アレクサンドロスにとっては軍内部の不平分子を散らす意図があったとも言われています。

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エジプトの古都「アレクサンドリア」

中でもエジプトに建設されたアレクサンドリアは最も繁栄した都市です。

その後プトレマイオス朝の都となり、「世界の結び目」と言われる程でした。

ムセイオンや図書館を建設

初代の王プトレマイオス1世はヨーロッパ各地の学者を招き入れ「ムセイオン」という博物館や、図書館を建設しました。

そこで輩出された多くの学者が自然科学の分野で大きな功績を残しました。

・ユークリッド幾何学を完成させたエウクレイデス
・地球の円周を測定したエラトステネス
・地動説を唱えたアリスタルコス

彼らは後世までその研究結果などで影響を与えた有名なムセイオン出身です。

この地は古代、様々な研究の要として多くの学者が集まって研究をしていました。

とりわけその拠点となったアレクサンドリア図書館はナポレオンのエジプト遠征により破壊されます。

また、この遠征中に郊外でロゼッタストーンが発見されたことは有名な出来事です。

エジプトのアレクサンドリアは交通の要所としての機能も担います。

地中海沿岸の都市であるアレクサンドリアの港は世界最古の港と言われており、現在でもエジプトの輸出入の75%を占めているのです。

キリスト教史でも重要

宗教を語る上でもこの都市は重要です。

エジプトはローマに支配されて以降、キリスト教の研究も行われました。

その後キリスト教布教の拠点となり、アレクサンドリア教会が建設されます。

キリスト教5本山の1つとなり、のちにキリスト教の正統派となったアタナシウス派を唱えたアタナシウスは、アレクサンドリア教会の司教でした。

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まとめ

そのような古代の歴史を知る上で極めて重要な役割を果たしたエジプトのアレクサンドリアですが、当時の痕跡はあまり残っていません。

度重なる戦闘で打撃を受けたこと、自然災害が起きたこと、そしてその地の真上で現在のアレクサンドリアの街が形成されたことがその要因です。

2,000年前の「世界の結び目」の多くは、今もなおアレクサンドリア市民の足の下に眠っているのです。

アレクサンドリア(エジプト)(世界史の窓)
アレクサンドリア!エジプト第二都市で古代の首都だった場所!観光地としても有名!(世界雑学ノート)

【アレクサンドロス大王】東方遠征で帝国を築いた戦術家

今回は、古代マケドニアの英雄アレクサンドロス大王の解説です。20歳という若さで国王の地位に就き東方大遠征を進めました。わずか32年の人生でしたが、2000年経った今でも語り注がれるほど大きな功績を残しました。

キーワード解説:アレクサンドロス大王

アレクサンドロス大王のプロフィール

生没年 紀元前356年〜紀元前323年

主な親族 フィリッポス2世(父)

所属国 マケドニア王国

出身地 ペラ(現在のギリシア)

能力値

指導力:5

アレクサンドロス
は、20歳という若さで国王の地位に就き東方大遠征を進めました。
当時最強であったアケメネス朝ペルシアを破り帝国を大きなものへと成長させたのは、当然、彼の指導力があってこそです。

知力:4

彼はグラニコス川の戦いイッソスの戦いガウガメラの戦いをそれぞれ指揮し、いずれもマケドニア軍を勝利に導きました。
相手の戦略ミスに助けられたこともあり運も味方したものの、アレクサンドロスの知力がなければマケドニアはここまで大きく発展しなかったことでしょう。
特にイッソスの戦いの際には、敵が大軍を率いていると知り最後まで迷いながらも大軍が展開しづらい隘路(狭い通路が続く場所)での戦いを選択したのは彼の知略の高さを垣間見る判断です。

政治力:5

アケメネス朝滅亡後、その後継者という形で振る舞ったアレクサンドロスでしたが、古代ペルシアらしい専制政治を展開します。
ペルシアの伝統に倣って、神のように振る舞ったのです。
他にも各地にアレクサンドリアという都市を作ったり、古代ヨーロッパとアジアの融合政策を展開したりなど、巨大となった帝国を維持しました。

人望:4

アレクサンドロス出生時、マケドニア国王フィリッポス2世の跡継ぎが誕生した、と町中が歓喜に包まれました。
幼い頃から高等教育を受けあらゆる分野に対する教養と博識は多くの人々にその存在の偉大さを認めさせます。
有名なグラニコス川の戦いでの一騎打ちのエピソードをはじめ自ら現場にたって敵と戦うこの勇猛果敢な姿は、部下たちの求心力を高めたことでしょう。
一方で、宴会の席では、酔っ払って部下を処刑したという話もあります。

恋愛:5

彼の正式な結婚は29歳の時です。バクトリアの豪族の娘と結婚しました。
アレクサンドロスは彼女に恋をしたと言われている一方で、政略的なものだったとの見解もあり詳細は定かではありません。
その後、スサにてペルシア豪族との集団婚礼式を行い、自身もアケメネス朝の王族の女性と結婚しています。
他にも、捕虜を愛人として迎え入れ丁重に扱ったという記述があります。
一夫多妻制であったため不思議なことは何もありませんが、さすがは大帝国のトップといったところではないでしょうか。

アレクサンドロス大王の誕生

紀元前356年7月26日の未明、オリュンピアス王妃が男児を出産、アレクサンドロス3世と名付けられました。

誕生に伴う祝賀の行事が、ギリシアの北方のマケドニアの首都でありアレクサンドロス誕生の地でもあるペラで盛大に行われます。

王(父、フィリッポス2世)により大切に育てられ、幼少期から言語学者、文法学者、詩人などから教育を受けます。

しかし、フィリッポス2世はそれだけでは満足せず、アレクサンドロスへもっと高い水準の教育を求めました。

彼が13歳のとき、アテナイのアカデメイア(プラトンが建てた、哲学、数論、幾何学、天文学等について研究する学園)で20年間学んだアリストテレスに打診します。

また、フィリッポスはアリストテレスのために宮殿のような学問所を設立し、エジプトからも詩人や芸術家や科学者を講師として招き入れ、アレクサンドロスら生徒たちを学ばせました。

フィリッポス2世の暗殺で20歳にして王即位

 ペロポネソス戦争(古代ギリシア世界全体を巻き込んだ戦争)以降、ギリシアは弱体化が進みました。

そんなギリシアを代表するポリスであるアテネ(古代ギリシアに存在したポリス/都市のこと)とテーベ(古代ギリシアに存在したポリス/都市のこと)が連合しマケドニアへ立ち向かいましたが、マケドニアはそれを撃破しました。

これが、カイロネイアの戦いです。

アレクサンドロスもフィリッポス2世の下で戦いに参加し、勝利に貢献しました。

そんなアレクサンドロスに転機が訪れたのは紀元前336年のことです。

父フィリッポス2世が暗殺され、20歳の若さで王に即位しました。

フィリッポス2世の死による混乱に乗じて勃発した混乱を終息させ、彼はペルシア征服へと乗り出します。

東方大遠征〜初陣〜

紀元前334年アレクサンドロスは東方大遠征を開始します。

彼が目指したのは当時世界最強の帝国であったアケメネス朝ペルシアです。

ペルシアの王に征服され半奴隷状態にあったアジア人たちを自らの手で解放することを目的としていました。

アレクサンドロス率いるマケドニア軍が最初にペルシア軍と対峙した戦いは、小アジアで繰り広げられたグラニコス川の戦いです。

ペルシア軍は最高指揮官のダレイオス3世が不在で、戦術をはじめとする指導は何人もの将軍たちによる会議に委ねられました。

ペルシアはマケドニアとの全面戦争を決意し、両軍はグラニコス川の東岸で対峙することとなります。

川を渡ってきたマケドニア軍を待ち構えるペルシア軍に対し、川の対岸まで渡って前へ進んでいかなければならないマケドニア軍の先発部隊は苦戦を強いられました。

マケドニア軍18,000、ペルシア軍14,000〜15,000(兵力については様々な見解があります)とされており、歩兵は数で勝るマケドニア軍が圧倒的に優勢でペルシア軍は岸辺に騎兵を配置して迎え撃つことを目論んでいました。

マケドニア軍は、先発部隊に続きアレクサンドロス自身が率いる本隊、そして騎兵隊を送り込んで戦闘を繰り広げます。

このグラニコス川の戦いは、マケドニア軍の勝利で終息します。

この会戦のハイライトとして数多くの記録が残っているのは、アレクサンドロスとミトリダテスの一騎打ちです。

アレクサンドロス3世(大王)の東征研究の一級の史料「アレクサンドロス東征記」の著者であるアッリアノスは、次のように著しています。

ダレイオス3世の娘婿ミトリダテスが戦列から大きく前方に馬を進め楔形になった騎兵の一団を率いているのを認めるや、彼(アレクサンドロス)もまた他に先んじて馬を飛ばし、正面からミトリダテスの顔に槍のひと突きを加えて彼を地面に突き落とした。この時ロイサケスがアレクサンドロスめがけて馬を駆け、偃月刀(えんげつとう)で彼の頭に斬りつけた。それは彼の兜の一部を跳ね飛ばしたが、兜自体はその打撃に持ちこたえた。これに対してアレクサンドロスは、槍で相手の胸当てを心臓まで刺し貫いて、彼も地上に倒した。しかしその時すでにスピトゥリダテスが背後から、アレクサンドロスに向かって偃月刀を高く振りかざしていた。一瞬早くドロピデスの子クレイトスが彼の肩先に斬りつけ、偃月刀もろともスピトゥリダテスの腕を斬り落とした。

アレクサンドロスは一騎打ちの際に自ら敵を倒した後、別の敵から斬りつけられそうになったところを側近に救われたのです。

ペルシア騎兵は敗走し、マケドニア軍は後方に取り残されたギリシア人傭兵を包囲します。

この最初の戦いに勝利しアジアへの進出に成功したアレクサンドロスは、さらに遠征を進めました。

東方大遠征〜ペルシア王との直接対決〜

紀元前333年11月、軍をさらに東へと進めたアレクサンドロスは、小アジア東部でアケメネス朝ペルシアのダレイオス3世と直接対決に臨みました。

これが、イッソスの戦いです。

小アジア西岸を南下しながら軍を進めていましたが、その途中アレクサンドロスが病床に伏したためにマケドニア軍の遠征が1〜2ヶ月間遅れてしまったのです。

一方で、大軍を率いるペルシア軍は有利な平野部(ソコイ平原)でマケドニア軍と対峙する作戦でしたが、アレクサンドロスの遠征が遅れているとの情報を得て海岸部を南下します。

両軍がすれ違いマケドニア軍は結果的に背後を取られる形となったため、大至急北へと引き返し川を挟んでの戦いが繰り広げられることとなったのです。

自分がペルシア軍に背後を取られていることを知ったアレクサンドロスには、2つの選択がありました。

一つは軍をそのまま南に進めてソコイという平原に出ることであったが、この場合、ダレイオス3世はあとを追いかけ、当初戦場にするつもりであったその地で戦うこととなります。

もう一方は、軍を北へ戻してペルシア軍と対峙することです。この2つの策の間で揺れ動き、決戦を前に不安と緊張感に苛まれていたという記述があります。

しかし、結果的にこの方法をとったことがマケドニア軍勝利の要因であるとされています。

マケドニア軍2〜3万に対してペルシア軍は10万近くにのぼり数で劣るマケドニア軍は、平原での戦いは大軍に有利なことから隘路での決戦を選んだこの決断は正しかったと言えます。

決戦は、ペルシア軍が撃破されダレイオス3世の逃走によってペルシア軍騎兵が相次いで敗走したことにより、アレクサンドロス率いるマケドニア軍の勝利で終わりました。

先述のダレイオス3世が大軍を展開できない海岸と山に囲まれた地での会戦となったことに加え、ペルシア帝国北東部のバクトリア・ソグディアナ地方の強力な騎兵部隊を動員しなかったこともペルシア軍の敗因とされています。

アレクサンドロスはこの勝利によって莫大な戦利品を得ました。

一方で、ペルシアにとってこの敗戦は事実上帝国の領土の西半分を失うことを意味していました。

アレクサンドロスはフェニキアシリア、そして紀元前332年にはエジプトを無血平定、地中海をおさえた彼の次の狙いはいよいよペルシア帝国の完全制服でした。

東方大遠征〜アケメネス朝ペルシアを征服〜

帝国をなんとしてでも守りたいダレイオス3世と、アケメネス朝に止めを刺したいアレクサンドロスの最終決戦となったのがガウガメラの戦いです。

ティグリス川を渡ったマケドニア軍は、ダレイオス3世の大軍がいるのを発見します。

対するダレイオス3世は、イッソスの戦いでの敗因を分析し大軍を引き連れて平野でアレクサンドロスを待ち構えていました。

帝国各地から強力な騎兵部隊を召集し、槍をはじめとする武器の改良、戦車も投入し全勢力をそそいでマケドニア軍を迎え撃ちます。

ところが、戦いは圧倒的な統率と戦術を駆使したマケドニア軍の圧勝でした。

ペルシア軍の準備は万全なものでしたが、イッソスの戦いの反省から今度はマケドニア軍をひたすら待ち構え決戦前日にアレクサンドロスにその地の検分を許してしまい、敵に分析の猶予を充分に与えてしまったことや、そのために守勢にはしる一方となってしまったこと、戦車は鍛え抜かれて統率の取れているマケドニア軍の前では歯が立たなかったことがペルシア軍の大敗を招きました。

さらには、検分を活かしアレクサンドロスが左右にバランスよく人員を配置したこともあるでしょう。

またしてもダレイオス3世は敗走、ついで騎兵部隊も敗走しました。

アレクサンドロスはダレイオス3世の追撃にこそ失敗したものの、ここでも多くの戦利品を得ます。

敗戦したアケメネス朝ペルシアは風前の灯火となり、紀元前330年、都であったペルセポリスが破壊されました。

ダレイオス3世は部下が離反していき、エクバタナ(メディア王国の都・現在のイランの都市)へと逃れます。

しかし、同年、バクトリア(中央アジアの地方の古名・当時はバクトリアという名の国が存在していた)のサトラップ(当時の行政官の役職の一つ)に捕まり暗殺されたことで220年間続いたアケメネス朝ペルシアは滅亡しました。

さらなる遠征は断念しスサへ帰還

アケメネス朝ペルシアを事実上滅ぼしたアレクサンドロスは、遠征軍をさらに東へと進めました。

エクバタナ、ヘカトンピュロス(現在のイラン北部の都市)、バクトリア、サマルカンド(現在のウズベキスタンの都市)を抑えソグディアナ(中央アジアのサマルカンドなどを含むザラフシャン川流域の古代名)各地を占領すると、紀元前327年にはカイバル峠を越えてインドへと到達しました。

インドでは地元の大軍と象部隊と対峙することになると知った彼は、自軍の将軍たちからの帰国を望む要望もありインドの地で東方大遠征続行を断念することを決意、スサ(現在のイランの都市)へと引き返します。

32歳の若さで逝去

スサへ帰還したアレクサンドロスでしたが、当時大帝国を築いたマケドニアの治世は不安定なものでした。

ペルシアを征服したアレクサンドロスは、ペルシアの政治体制を一新することはせずむしろアケメネス朝時代の支配体制、行政機構を受け継いでいました。

そのため高官たちのマケドニアに対する反乱の企てや不正行為が横行し、粛清はもちろん処刑された高官も複数いました。

その後任にはいずれもマケドニア人がつくこととなり、粛清は政治的なものであったとされています。

そんな帝国の情勢の中、アレクサンドロスは西地中海への遠征を企てます。

遠征の準備を終え紅海を渡ってシナイ半島へ到達し、現在のスペインのジブラルタル海峡まで攻略する計画でした。

ところが、アレクサンドロスは突然熱病を発症し回復することなくバビロンの地でこの世をさることとなります。

紀元前323年6月10日のことでした。

20代にして巨大な帝国を築き上げ、東西の文化を繋ぎ歴史に転換期をもたらしたアレクサンドロス大王の死去は、その後誰がその意志を引き継ぐかを巡る戦争に発展するほど偉大なものでした。

彼の功績は、2000年以上経った現在も決して色あせることはありません。

アレクサンドロス/アレクサンドロスの東方遠征(世界史の窓)
アレクサンドロスの遠征(Vivo)
アカデメイア(コトバンク)
グラニコス川の戦い(HISTORIA)
アッリアノス(weblio)

リンカーンの名言~人民の、人民による、人民のための政治~

アメリカ史上唯一の大規模な内戦を終結させ、アメリカ合衆国を守ったリンカーン大統領。今回は、リンカーン大統領の2つの有名な演説を紹介します。

ゲティスバーグ演説

government of the people, by the people, for the people

これをどこかで見た、あるいは聞いたことがある人も少なくないと思います。

この部分だけ和訳すると、人民の、人民による、人民のための政治という意味になります。

これは有名な、リンカーン大統領が1863年11月19日にゲティスバーグで行った演説の抜粋です。

このスピーチはたった2分ほどの短いものでしたが、南北戦争真っ只中の人々の心を掴むのには充分でした。

演説の冒頭でリンカーンは

87年前、私たちの先祖は、自由の精神に抱かれ、人は皆平等の下に創られているという信条に捧げられた新しい国家を、この大陸に誕生させた。

と述べています。

当時奴隷制度の賛否によりアメリカ合衆国が二分していた状況の中、人権派であり奴隷制度に反対していたリンカーン大統領は、どのような目的、信条の下でアメリカ合衆国が建国されたのかを確認したのです。

戦場にもなったゲティスバーグでのこの演説は、南北戦争を戦う北軍兵士、あるいは差別と戦う南部の黒人たちの士気を高めるものになりました。

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2つに割れた家

リンカーンはゲティスバーグ演説だけでなく、数々の演説を行い人々の心を掴んできました。

名言として現在にまで語り継がれているものも多くあります。

1858年、リンカーンが大統領になる前のことです。共和党から上院選の候補者に指名されたリンカーンは北部と南部の溝が深まっていった50年代後半のアメリカに対し、このように述べました。

自らに対してふたつに割れた家は、立っていられません。この政府は、半分が奴隷、半分が自由民では長く続くことはできないと確信しております。

当時、北部が自由州、南部は奴隷州でした。演説では奴隷と自由民について触れていますが、これはもちろん南北の対立のことを示しています。

リンカーンは戦争になることには反対しており、割れた家が再び一つの家に戻ることを願っていたのです。

しかし、その3年後の1861年、

どちらも戦争を否定しておりました。しかし、片方が国家を生き延びさせるより、戦争を望んだのであります。そして他方は滅ぼされるぐらいなら、戦争を受け入れたのです。そこで内乱となりました。

と述べました。

南部諸州がアメリカ合衆国を離脱し南部にある合衆国保有のサムター要塞の引き渡しを迫られた時、北軍(合衆国)はこれを拒否し、南北戦争へと突入したのです。

まとめ

彼は政治家人生の中で多くの演説をし、名言を残してきました。

アメリカ合衆国と民主主義を守った偉大な大統領の言葉には、やはり聴く者の心に響くmagicがかけられているのでしょうか。

ナポレオン誕生の地〜コルシカ島の歴史を紹介〜

コルシカ島は、地中海でもっとも美しい島だと言われています。
視覚的な美しさはもちろん、古代ローマから始まりイスラーム、フランス、イギリスなど、多くの国や民族が欲したために奥深い歴史ももっています。
あのナポレオンが誕生したことでも知られるコルシカ島の歴史の解説です。

キーワード解説:コルシカ島

コルシカ島ってどんな島?

フランスから飛行機で90分、地中海でもっとも美しいと言われているコルシカ島を紹介します。

イタリア半島とフランスの間に存在するコルシカ島は、広島県や兵庫県ほどの面積でおよそ30万人が暮らしています。

「海に立つ山」と呼ばれ山岳地帯もあります。

島最高峰のサント山の標高は2,706mにのぼり、現在は地中海を代表するリゾート地の一つです。

コルシカ島の歴史

ナポレオン誕生の地として知られるこの島の歴史をみていきましょう。

コルシカ島の歴史〜古代から中世〜

紀元前2世紀、ローマとカルタゴによるポエニ戦争の結果、コルシカ島はローマに占領されました。

島内陸部に眠る鉱物資源の獲得を目論むローマと衝突し、規模の大きな戦いも複数回起きています。

その後、コルシカ人はローマ人の奴隷として使われました。

5世紀、コルシカ島はゲルマン人の大移動の影響を受けることとなります。

ローマ帝国の衰退と、ゲルマン人や勢力を広げるイスラームの度重なる襲撃に苦しみました。

コルシカ島がローマに近かったことから、ローマ教皇はこの島の征服を目論み、キリスト教とイスラム教の布教戦争のターゲットにもなります。

さらに、6世紀以降はピサやジェノヴァといった現在のイタリアにあたる海洋都市国家に目をつけられました。

コルシカ島の歴史〜近代から現代〜

コルシカ島が転換期を迎えたのは16世紀中頃からです。

この頃からフランスが侵入し、後にフランスに帰順します。

1599年のカトー・カンブレジ条約によっていったんはイタリア系のジェノヴァに返還されますが、18世紀中頃から再びフランスの介入がすすんでいきました。

フランスに完全に帰属してからまもなく誕生したのがナポレオンです。

フランス人として生きていくことを決意した彼は、1794年にフランスとの戦いの拠点を欲して到来したイギリス軍から、96年にコルシカ島を解放しました。

様々な国、民族の思惑に翻弄されながらもそれ以後、現在に至るまでコルシカ島はフランス領となっています。

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まとめ

地中海に浮かぶコルシカ島は、その土地を欲した人々によって様々な文化が入り混ざることで多様な文化をもつ島となりました。

皆さんも、美しい自然とともに歴史を感じてみてはいかがでしょうか。

コルシカ島(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
コルシカ島の歴史(元老院議員私設資料展示館)
フランス人の憧れの秘境、美しきコルシカ島へ。(madame FIGARO・jp)

【難民問題】国際問題の原因や現状、ドイツや日本の例を解説

世界には7,950万人難民がいます。
難民は主に近隣諸国で受け入れられていますが、ドイツをはじめとする先進国も積極的に受け入れています。
一方で、難民の受け入れに対する自国民の反対の声もあり、難しい国際問題となっているのです。

キーワード解説:難民問題

難民とは?

難民とは、紛争、宗教、人種、政治などの要因で迫害を受け、生命の危機に晒されていて他国に逃れざるを得ない人のことです。

1951年に採択された難民条約によって定義されています。

難民の地位に関する1951年の条約(UNHCR 日本)

世界の難問の現状とその数

2019年末時点で、自分の故郷を追われた難民は7,950万人いるとされています。

難民はどこの国で発生し、どこの国で受け入れられているのでしょうか。

難民の出身国

2019年難民の出身国人数
1位シリア660万人
2位ベネズエラ370万人
3位アフガニスタン270万人
4位南スーダン220万人
5位ミャンマー110万人

現在、難民が最も多い国はシリアです。

数年前、イスラム国(ISIS)によるテロ活動や内戦によって国を追われてしまったシリア難民のニュースが連日報道されていました。

2番目に難民が多い国は南米のベネズエラです。

政治情勢が不安定となり、急速なインフレが進んでおり経済が回らず国民が困窮しています。

不安を感じた国民が暴徒化し治安の維持もままならず、なくなく国を捨てる人々が増えているのです。

最大の受け入れ国

では、多くの難民を受け入れている国はどこなのでしょうか。

2019年難民の受け入れ国人数
1位トルコ360万人
2位コロンビア180万人
3位パキスタン140万人
3位ウガンダ140万人
5位ドイツ110万人

必ずしも当てはまるわけではないですが、難民が多く発生している国の周辺国は難民の流入が多い傾向があります。

難民を最も多く受け入れている国はトルコです。

周辺の中東諸国の政情が安定していないことから多くの人々が押し寄せ、シリア難民を中心に多くの難民を受け入れています。

次に多くの難民を受け入れているのは南米コロンビアです。

こちらも、隣接するベネズエラの人々が国境を超えてくることが要因としてあげられます。

数字で見る難民情勢(2019年)(UNHCR 日本)
ベネズエラ難民が抱える問題について考えよう(World Vision)

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難民に対する先進国の受け入れ

難民を積極的に受け入れているトルコやコロンビアですが、ともに途上国です。

先進国の難民の受け入れの現状をみていきましょう。

ドイツは難民の受け入れに積極的

ドイツは多くの難民を受け入れており、特に2015年以降シリア難民の受け入れに積極的です。

ドイツは、第二次世界大戦中にユダヤ人を迫害したことへの反省から「あらゆる人種を受け入れる」という文化が強く根付いています。

メルケル首相がシリア難民を全員受け入れると発言したことは話題を呼び、多くの人々が中東からヨーロッパの西側にあるドイツを目指しました。

また、移民国家であるドイツはあらゆる出自を持った移民もドイツ社会へ参加してもらおうと積極的です。

難民申請者はドイツ語教育や職業訓練を受けることが可能です。

さらに、難民として不認定となっても職業訓練を通して永住資格を取れる可能性もあるのです。

日本国内の難民の数は?

日本は難民の認定に非常に厳格な体制をとっています。

2016年には1万人以上の難民申請があったものの、認定されたのは28人でした。

日本はアジアの外れにある島国ということもあり、まずやってくることが地理的に困難です。

加えて多民族国家ではないため国民のほとんどが日本語を話しています。(私たちにとっては当たり前かもしれませんが、世界的には珍しいんですよ)

言語の壁は難民たちにとってとても大きいようです。

また、出稼ぎ目的や偽装難民が難民が日本に在留することを防ぐことを目的として日本は厳格な審査をしているのです。

そのため、日本の難民認定率は0.2~0.4%ほどです。

ドイツおよび日本における難民問題について(JFTC MONTHLY ONLINE)
難民認定率、日本はたった0.2%。日本が難民受け入れに厳しい理由とは(gooddo)

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なぜ難民の受け入れに賛否が分かれるのか

難民の受け入れに対し、どこの国でも賛成派と反対派がいるのが現状です。

難民の積極的受け入れに賛成の人々は、同じ人間なのだから、人種や民族など様々なバックグラウンドを持った人々がお互いに助け合うべきだと主張します。

加えて、諸外国からの難民を受け入れることで国際的な貢献も出来ます。

難民によって多様性が生まれ新たな文化の創出が期待できることや、人口や労働力の増加は国にとって経済の発展につながることは事実です。

一方で、過度な難民の受け入れに反対する人々もいます。

難民を受け入れることで雇用が奪われるという不安の声があがっています。

安い労働力で働く人々の流入によって、もともといた国民の生活が不安定になるなら反対するのは無理もないことかもしれません。

また、民族的、宗教的な違いも不安の要因となっています。

2015年に大量の難民が押し寄せたハンガリーは、国境を封鎖しました。

さらに、チェコやスロバキア、ポーランドなどの東欧諸国は難民の受け入れに消極的な姿勢を示していました。

これは財政負担への懸念だけでなく、キリスト教社会にイスラム教が入り込んでくることで自分の国、自分の民族のアイデンティティが失われるのではないかという不安からでした。

なぜハンガリーは難民を拒むか(世界日報)
難民は本当に負担?:知られざる好影響とは(GNV)

まとめ

世界には8,000万人近くの難民がいます。世界人口のおよそ1%にあたる数です。

国を追われるということはどういうことなのか、先進国に暮らしている私たちには想像もできないことかもしれません。

しかし、世界の100人に1人は家を捨て、故郷を捨て、国を捨てて言葉も土地もわからない外国で生き延びる術を探しているのです。

【北マケドニア】改名理由とEU加盟を巡る論争

2019年2月12日、マケドニア共和国が北マケドニア共和国へ改名しました。
そこにはNATOEUへの加盟を巡るギリシアとの対立がありました。
かつて「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれたバルカン半島の情勢に、今後も動きがあるかもしれません。

キーワード解説:北マケドニア共和国

歴史が深い「マケドニア地方」

「マケドニア」高校の世界史の授業を覚えていませんか?

アレクサンドロス大王が活躍したことで広く知られる「マケドニア」は、東ヨーロッパのバルカン半島の一部をさす地方です。

アレクサンドロス大王の時代に最大版図となったマケドニア王国は、ローマ帝国オスマントルコ帝国の支配、20世紀後半にはユーゴスラビア連邦の一部となり、現在では北マケドニア共和国という独立国となっています。

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北マケドニア共和国の改名

国名を変えることは国民にとって大きな決断です。そこには歴史的、政治的な理由がありました。

「マケドニア地方」を巡る歴史

2019年2月12日、マケドニア共和国が北マケドニア共和国へ改名しました。

「マケドニア」という地名を名乗っていることが論争の火種となったのです。

地理的に北マケドニア共和国は、マケドニア地方の4割を占めるにすぎず、残りの5割がギリシア、1割がブルガリアに属しています。

また、現在ではマケドニア系住民が多数を占め、次いでアルバニア系住民が存在しますが、現在の北マケドニア共和国のマケドニア人はスラブ系民族であり、ギリシア系の王朝であった古代マケドニア王国とは直接的な関係はないのです

ギリシャは改名前のマケドニア共和国樹立当初から「マケドニア」を名乗ることに反発していました。

北マケドニア共和国はギリシアの北側に位置しています。

ギリシア側は、ギリシア第二の都市であるテッサロニキを含んだ国内のマケドニア地方を奪いに来るのではないかと反発を強めました。

第二次世界大戦後の冷戦で、ギリシアは東西の覇権争いに巻き込まれた国の一つとなったこともあり、この問題は根深いのです。

EU・NATO加盟への思惑

EU、NATOへの加盟を望む北マケドニアに対し、ギリシアは上記の理由で反対を表明してきました。

そんな中、2018年9月にマケドニア共和国(当時)で、国名を「北マケドニア」と改める国民投票が行われます。

賛成多数であったものの、投票率が3割台であったことや、アレクサンドロス大王を象徴する「マケドニア」の名前をそのまま残したい人々とEU、NATOに加盟して隣国のアルバニアとの関係を強化したいアルバニア系住民の対立もあり、国民全員の一致とは言えない結果となりました。

結局、「賛成多数」を尊重し北マケドニア共和国が譲歩する形で2019年に国名を改名しNATOへの加盟が認められます。(ギリシアとの国名問題が解決したためです)

また、EUについても2020年に加盟交渉に参加することが認められました。

一方、ギリシア国民の中には「マケドニア」の名前が残ることを批判する人がいることや、EUとNATOに傾く北マケドニアに対してロシアが不信感を示すなど、国名を巡ってヨーロッパ各国の思惑や覇権争いはスッキリとした解決には至っていないようです。

まとめ

北マケドニア共和国が位置するバルカン半島は、第一次世界大戦前ヨーロッパの火薬庫と呼ばれたほど政治的な緊張がありました。

およそ100年が経過した今回の対立は、北マケドニアが譲歩する形で衝突が避けられました。

一方で、今後EUの加盟が正式に認められれば、ロシアをはじめ新たな対立構造を生みかねないとの懸念の声もあがっています。

北マケドニア(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
EUを揺るがすマケドニア国名論争(Newsweek)
マケドニア、「北マケドニア共和国」に改名へ ギリシャとの国名論争決着目指す(BBC JAPAN)
「北マケドニア」改名発効(日本経済新聞)

【メラニア夫人】トランプ政権ファーストレディーを解説

メラニア・トランプ氏は東欧の旧ユーゴスラビアで生まれ育ちました。26歳で渡米、ファッションモデルとして活躍します。2005年にはドナルド・トランプ氏と結婚、後に彼が大統領に就任したことで自身もファーストレディーとなりました。

キーワード解説:メラニア・トランプ

経歴

1970年 ユーゴスラビア社会主義連邦共和国(現在のスロベニア)で生まれる

1996年 渡米

2001年 米国永住権所得

2005年ドナルド・トランプと結婚

2017年 大統領夫人(ファーストレディー)となる

メラニア夫人の生い立ち

1970年に旧ユーゴスラビアで生まれました。(複数の国家に分裂していますが、メラニア夫人の故郷は現在のスロベニアにあたります)

その圧倒的な美貌から16歳でモデルデビューを果たします。

コマーシャルへ出演やパリミラノでの活動など、10代の頃から頭角を現して現していました。

26歳の頃、母国でユーゴスラビア内戦が悪化したこと、アメリカ人実業家を出会ったことなどを理由に渡米しています。(メラニア氏の故郷は比較的平穏だったそうです)

その後、アメリカでのパーティーで出会ったドナルド・トランプ氏と2005年に結婚しました。

メラニア氏はトランプ氏の3人目の妻です。

2人の間にはバロン・トランプという男の子の子供がいます。

2017年、夫のトランプ氏が大統領に就任したことに伴いアメリカ合衆国「ファーストレディー」として大統領を支えることとなりました。

メラニア・トランプは外国出身ですが、外国出身のファーストレディーは190年ぶりだそうです。

また、ドナルド・トランプの前妻のイヴァナ氏が自身をファーストレディーだといったことに対して「残念ながら、単に注目されたいだけの、自分勝手な真似だ」と反論を唱えたことが話題となりました。

このイヴァナ氏はイヴァンカ・トランプ大統領補佐官の母親です。

メラニア夫人ってどんな人? ドナルド・トランプ氏の妻【画像集】(HUFFPOST)
メラニア夫人の若い頃が可愛い!年齢・身長・生い立ちと経歴・学歴の噂も!(Groove)

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ファーストレディーとしての外交

2019年に来日した際に皇后の雅子さまと時間をかけて話をしました。

その時、雅子さまは自らメラニア夫人の手を握り、顔を寄せられました。

メラニア夫人も自然にそれに応え、両頰を軽く触れ合わせるチークキスを交わされました。

故郷である東欧のスロベニアでは、親しい友人にはチークキスをする文化があるそうです。

メラニア夫人の思想は?

メラニア氏は外国出身のファーストレディーであることからリベラル寄りではないかとされています。

実際にトランプ氏の移民政策を批判したことがあります。

こういった経緯も相まって、バイデン氏と闘った2020年アメリカ大統領選挙ではトランプ氏に敗北の受け入れを進言したと報道されました。(この報道に対してはトランプ陣営から否定の声明が出され、メラニア氏自身もTwitterで「違法なものを除き、合法的な票はすべて集計されるべきだ」と投稿しています)

メラニア夫人らが「敗北を受け入れる時」とトランプ氏説得との報道も 陣営幹部はTwitterで否定<アメリカ大統領選>(東京新聞)

最後に

東欧で生まれたメラニア氏は、あのアメリカ合衆国大統領の夫人となりました。

これからもメディアで大注目を浴びるであろうトランプ氏の妻とあって、目が離せない存在ですね。

【氷河の後退】地球温暖化の影響は世界各地で起きている

キーワード解説:氷河の後退

20世紀末から、環境問題が世界的な社会問題となっています。
特に、地球温暖化などが原因で各地で氷河の後退、減少が深刻です。南極、北極に限らず、人が住む陸地に囲まれたアルプス山脈やヒマラヤ山脈でも危惧されているのです。

地球温暖化による氷河の後退

20世紀から21世紀初頭にかけての気候変動が、氷河の後退(減少)をもたらしていると考えられています。

1994年以降、地球全体で28兆トンもの氷河が消えたとするデータもあるほどです。

地球温暖化と氷河の後退に対する研究は様々な研究機関や学者が行なっていますが、中には「90%以上の確率で人間の活動が原因で起きた気候変動が原因だ」とする研究結果も存在します。

氷河の後退がもたらす気候変動の明確な証拠(nature asia)
1994年以降、28兆トンもの氷が地球上から消えていた —— 研究者は温暖化が原因と指摘(BUSINESS INSIDER)

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深刻なアルプス山脈の氷河融解

氷河と聞くと北極南極をイメージするでしょう。

しかし、深刻な氷河の減少はヨーロッパのアルプス山脈でも起きています。

気温の上昇によって山の斜面に存在する氷河が溶けると、雪崩を引き起こす可能性があります。

地滑りや洪水によってインフラが崩壊することはもちろん、近くにできた湖やアルプス山脈から流れる川の水位が上昇し決壊する恐れもあるのです。

そうなれば、下流の集落にも当然影響が出ますし、今後住めなくなる土地が増える増えるかもしれません。

氷河の減少は、観光業にも影響を与えます。

アルプス山脈には全長20kmを超えるヨーロッパ最大の氷河アレッチ氷河があります。

2001年には世界遺産として登録されるほど見るものを魅了するこの氷河ですが、20世紀の100年間で約2km縮小しました。

さらには、気候変動による氷河の後退を受け、観光客の安全面を考慮してアルプス山脈の登山道のルートを一新しました。

このように、アルプス山脈の観光で生計を立てている自治体や会社は、環境が変化するたびに戦略を練り直しているのです。

しかし、今後の環境の変化は彼らの努力では太刀打ちできないほど目まぐるしいものになる可能性もあります。

氷河の後退 高まるアルプスの危険と新たな観光の展開(SWI swissinfo.ch)
20世紀における地球温暖化と氷河の消長(国立環境研究所 地球環境研究センター)

世界最大の山脈「ヒマラヤ山脈」の氷河

8,000m級の山々が連なるヒマラヤ山脈でも氷河の後退が進んでいます。

国連環境計画(UNEP)の報告は、氷河の後退による湖や河川の決壊が甚大な被害をもたらす恐れがあると結論づけています。

ヒマラヤ山脈沿いの44の湖で起きている急速な水位の上昇が10年以内に決壊につながる可能性があると指摘しています。

インダス川ガンジス川メコン川長江黄河などアジアを流れる大河川の水源であるヒマラヤ山脈の氷河の後退は、様々な生態系にも影響を与えかねません。

小さな河川沿いに住む人口も合わせると20億人に登り、世界人口の4分の1がこの巨大な山脈の恩恵を受けています。

気候変動をはじめとする環境の変化がこんなにも大勢の人々の生活と結びつくのです。

温暖化と氷河の後退
国連報告書:ヒマラヤの氷河溶解により洪水と水不足の恐れ(日刊 温暖化新聞 アーカイブ)

最後に

氷河の後退による地球環境への影響は計り知れません。

このままの生活を続けていたら子どもたちの代が「壮大な雪山の美しさを目にすることができない」「○○の魚を知らない」という悲しい未来がきてしまうかもしれません。

私たち一人一人が深刻な「環境問題」と向き合うべき時がきているのです。