今回は、古代マケドニアの英雄「アレクサンドロス大王」の解説です。20歳という若さで国王の地位に就き東方大遠征を進めました。わずか32年の人生でしたが、2000年経った今でも語り注がれるほど大きな功績を残しました。
キーワード解説:アレクサンドロス大王
アレクサンドロス大王のプロフィール
生没年 紀元前356年〜紀元前323年
主な親族 フィリッポス2世(父)
所属国 マケドニア王国
出身地 ペラ(現在のギリシア)
能力値
指導力:5
アレクサンドロスは、20歳という若さで国王の地位に就き東方大遠征を進めました。
当時最強であったアケメネス朝ペルシアを破り帝国を大きなものへと成長させたのは、当然、彼の指導力があってこそです。
知力:4
彼はグラニコス川の戦い、イッソスの戦い、ガウガメラの戦いをそれぞれ指揮し、いずれもマケドニア軍を勝利に導きました。
相手の戦略ミスに助けられたこともあり運も味方したものの、アレクサンドロスの知力がなければマケドニアはここまで大きく発展しなかったことでしょう。
特にイッソスの戦いの際には、敵が大軍を率いていると知り最後まで迷いながらも大軍が展開しづらい隘路(狭い通路が続く場所)での戦いを選択したのは彼の知略の高さを垣間見る判断です。
政治力:5
アケメネス朝滅亡後、その後継者という形で振る舞ったアレクサンドロスでしたが、古代ペルシアらしい専制政治を展開します。
ペルシアの伝統に倣って、神のように振る舞ったのです。
他にも各地にアレクサンドリアという都市を作ったり、古代ヨーロッパとアジアの融合政策を展開したりなど、巨大となった帝国を維持しました。
人望:4
アレクサンドロス出生時、マケドニア国王フィリッポス2世の跡継ぎが誕生した、と町中が歓喜に包まれました。
幼い頃から高等教育を受けあらゆる分野に対する教養と博識は多くの人々にその存在の偉大さを認めさせます。
有名なグラニコス川の戦いでの一騎打ちのエピソードをはじめ自ら現場にたって敵と戦うこの勇猛果敢な姿は、部下たちの求心力を高めたことでしょう。
一方で、宴会の席では、酔っ払って部下を処刑したという話もあります。
恋愛:5
彼の正式な結婚は29歳の時です。バクトリアの豪族の娘と結婚しました。
アレクサンドロスは彼女に恋をしたと言われている一方で、政略的なものだったとの見解もあり詳細は定かではありません。
その後、スサにてペルシア豪族との集団婚礼式を行い、自身もアケメネス朝の王族の女性と結婚しています。
他にも、捕虜を愛人として迎え入れ丁重に扱ったという記述があります。
一夫多妻制であったため不思議なことは何もありませんが、さすがは大帝国のトップといったところではないでしょうか。
アレクサンドロス大王の誕生
紀元前356年7月26日の未明、オリュンピアス王妃が男児を出産、アレクサンドロス3世と名付けられました。
誕生に伴う祝賀の行事が、ギリシアの北方のマケドニアの首都でありアレクサンドロス誕生の地でもあるペラで盛大に行われます。
王(父、フィリッポス2世)により大切に育てられ、幼少期から言語学者、文法学者、詩人などから教育を受けます。
しかし、フィリッポス2世はそれだけでは満足せず、アレクサンドロスへもっと高い水準の教育を求めました。
彼が13歳のとき、アテナイのアカデメイア(プラトンが建てた、哲学、数論、幾何学、天文学等について研究する学園)で20年間学んだアリストテレスに打診します。
また、フィリッポスはアリストテレスのために宮殿のような学問所を設立し、エジプトからも詩人や芸術家や科学者を講師として招き入れ、アレクサンドロスら生徒たちを学ばせました。
フィリッポス2世の暗殺で20歳にして王即位
ペロポネソス戦争(古代ギリシア世界全体を巻き込んだ戦争)以降、ギリシアは弱体化が進みました。
そんなギリシアを代表するポリスであるアテネ(古代ギリシアに存在したポリス/都市のこと)とテーベ(古代ギリシアに存在したポリス/都市のこと)が連合しマケドニアへ立ち向かいましたが、マケドニアはそれを撃破しました。
これが、カイロネイアの戦いです。
アレクサンドロスもフィリッポス2世の下で戦いに参加し、勝利に貢献しました。
そんなアレクサンドロスに転機が訪れたのは紀元前336年のことです。
父フィリッポス2世が暗殺され、20歳の若さで王に即位しました。
フィリッポス2世の死による混乱に乗じて勃発した混乱を終息させ、彼はペルシア征服へと乗り出します。
東方大遠征〜初陣〜
紀元前334年アレクサンドロスは東方大遠征を開始します。
彼が目指したのは当時世界最強の帝国であったアケメネス朝ペルシアです。
ペルシアの王に征服され半奴隷状態にあったアジア人たちを自らの手で解放することを目的としていました。
アレクサンドロス率いるマケドニア軍が最初にペルシア軍と対峙した戦いは、小アジアで繰り広げられたグラニコス川の戦いです。
ペルシア軍は最高指揮官のダレイオス3世が不在で、戦術をはじめとする指導は何人もの将軍たちによる会議に委ねられました。
ペルシアはマケドニアとの全面戦争を決意し、両軍はグラニコス川の東岸で対峙することとなります。
川を渡ってきたマケドニア軍を待ち構えるペルシア軍に対し、川の対岸まで渡って前へ進んでいかなければならないマケドニア軍の先発部隊は苦戦を強いられました。
マケドニア軍18,000、ペルシア軍14,000〜15,000(兵力については様々な見解があります)とされており、歩兵は数で勝るマケドニア軍が圧倒的に優勢でペルシア軍は岸辺に騎兵を配置して迎え撃つことを目論んでいました。
マケドニア軍は、先発部隊に続きアレクサンドロス自身が率いる本隊、そして騎兵隊を送り込んで戦闘を繰り広げます。
このグラニコス川の戦いは、マケドニア軍の勝利で終息します。
この会戦のハイライトとして数多くの記録が残っているのは、アレクサンドロスとミトリダテスの一騎打ちです。
アレクサンドロス3世(大王)の東征研究の一級の史料「アレクサンドロス東征記」の著者であるアッリアノスは、次のように著しています。
ダレイオス3世の娘婿ミトリダテスが戦列から大きく前方に馬を進め楔形になった騎兵の一団を率いているのを認めるや、彼(アレクサンドロス)もまた他に先んじて馬を飛ばし、正面からミトリダテスの顔に槍のひと突きを加えて彼を地面に突き落とした。この時ロイサケスがアレクサンドロスめがけて馬を駆け、偃月刀(えんげつとう)で彼の頭に斬りつけた。それは彼の兜の一部を跳ね飛ばしたが、兜自体はその打撃に持ちこたえた。これに対してアレクサンドロスは、槍で相手の胸当てを心臓まで刺し貫いて、彼も地上に倒した。しかしその時すでにスピトゥリダテスが背後から、アレクサンドロスに向かって偃月刀を高く振りかざしていた。一瞬早くドロピデスの子クレイトスが彼の肩先に斬りつけ、偃月刀もろともスピトゥリダテスの腕を斬り落とした。
アレクサンドロスは一騎打ちの際に自ら敵を倒した後、別の敵から斬りつけられそうになったところを側近に救われたのです。
ペルシア騎兵は敗走し、マケドニア軍は後方に取り残されたギリシア人傭兵を包囲します。
この最初の戦いに勝利しアジアへの進出に成功したアレクサンドロスは、さらに遠征を進めました。
東方大遠征〜ペルシア王との直接対決〜
紀元前333年11月、軍をさらに東へと進めたアレクサンドロスは、小アジア東部でアケメネス朝ペルシアのダレイオス3世と直接対決に臨みました。
これが、イッソスの戦いです。
小アジア西岸を南下しながら軍を進めていましたが、その途中アレクサンドロスが病床に伏したためにマケドニア軍の遠征が1〜2ヶ月間遅れてしまったのです。
一方で、大軍を率いるペルシア軍は有利な平野部(ソコイ平原)でマケドニア軍と対峙する作戦でしたが、アレクサンドロスの遠征が遅れているとの情報を得て海岸部を南下します。
両軍がすれ違いマケドニア軍は結果的に背後を取られる形となったため、大至急北へと引き返し川を挟んでの戦いが繰り広げられることとなったのです。
自分がペルシア軍に背後を取られていることを知ったアレクサンドロスには、2つの選択がありました。
一つは軍をそのまま南に進めてソコイという平原に出ることであったが、この場合、ダレイオス3世はあとを追いかけ、当初戦場にするつもりであったその地で戦うこととなります。
もう一方は、軍を北へ戻してペルシア軍と対峙することです。この2つの策の間で揺れ動き、決戦を前に不安と緊張感に苛まれていたという記述があります。
しかし、結果的にこの方法をとったことがマケドニア軍勝利の要因であるとされています。
マケドニア軍2〜3万に対してペルシア軍は10万近くにのぼり数で劣るマケドニア軍は、平原での戦いは大軍に有利なことから隘路での決戦を選んだこの決断は正しかったと言えます。
決戦は、ペルシア軍が撃破されダレイオス3世の逃走によってペルシア軍騎兵が相次いで敗走したことにより、アレクサンドロス率いるマケドニア軍の勝利で終わりました。
先述のダレイオス3世が大軍を展開できない海岸と山に囲まれた地での会戦となったことに加え、ペルシア帝国北東部のバクトリア・ソグディアナ地方の強力な騎兵部隊を動員しなかったこともペルシア軍の敗因とされています。
アレクサンドロスはこの勝利によって莫大な戦利品を得ました。
一方で、ペルシアにとってこの敗戦は事実上帝国の領土の西半分を失うことを意味していました。
アレクサンドロスはフェニキア、シリア、そして紀元前332年にはエジプトを無血平定、地中海をおさえた彼の次の狙いはいよいよペルシア帝国の完全制服でした。
東方大遠征〜アケメネス朝ペルシアを征服〜
帝国をなんとしてでも守りたいダレイオス3世と、アケメネス朝に止めを刺したいアレクサンドロスの最終決戦となったのがガウガメラの戦いです。
ティグリス川を渡ったマケドニア軍は、ダレイオス3世の大軍がいるのを発見します。
対するダレイオス3世は、イッソスの戦いでの敗因を分析し大軍を引き連れて平野でアレクサンドロスを待ち構えていました。
帝国各地から強力な騎兵部隊を召集し、槍をはじめとする武器の改良、戦車も投入し全勢力をそそいでマケドニア軍を迎え撃ちます。
ところが、戦いは圧倒的な統率と戦術を駆使したマケドニア軍の圧勝でした。
ペルシア軍の準備は万全なものでしたが、イッソスの戦いの反省から今度はマケドニア軍をひたすら待ち構え決戦前日にアレクサンドロスにその地の検分を許してしまい、敵に分析の猶予を充分に与えてしまったことや、そのために守勢にはしる一方となってしまったこと、戦車は鍛え抜かれて統率の取れているマケドニア軍の前では歯が立たなかったことがペルシア軍の大敗を招きました。
さらには、検分を活かしアレクサンドロスが左右にバランスよく人員を配置したこともあるでしょう。
またしてもダレイオス3世は敗走、ついで騎兵部隊も敗走しました。
アレクサンドロスはダレイオス3世の追撃にこそ失敗したものの、ここでも多くの戦利品を得ます。
敗戦したアケメネス朝ペルシアは風前の灯火となり、紀元前330年、都であったペルセポリスが破壊されました。
ダレイオス3世は部下が離反していき、エクバタナ(メディア王国の都・現在のイランの都市)へと逃れます。
しかし、同年、バクトリア(中央アジアの地方の古名・当時はバクトリアという名の国が存在していた)のサトラップ(当時の行政官の役職の一つ)に捕まり暗殺されたことで220年間続いたアケメネス朝ペルシアは滅亡しました。
さらなる遠征は断念しスサへ帰還
アケメネス朝ペルシアを事実上滅ぼしたアレクサンドロスは、遠征軍をさらに東へと進めました。
エクバタナ、ヘカトンピュロス(現在のイラン北部の都市)、バクトリア、サマルカンド(現在のウズベキスタンの都市)を抑えソグディアナ(中央アジアのサマルカンドなどを含むザラフシャン川流域の古代名)各地を占領すると、紀元前327年にはカイバル峠を越えてインドへと到達しました。
インドでは地元の大軍と象部隊と対峙することになると知った彼は、自軍の将軍たちからの帰国を望む要望もありインドの地で東方大遠征続行を断念することを決意、スサ(現在のイランの都市)へと引き返します。
32歳の若さで逝去
スサへ帰還したアレクサンドロスでしたが、当時大帝国を築いたマケドニアの治世は不安定なものでした。
ペルシアを征服したアレクサンドロスは、ペルシアの政治体制を一新することはせずむしろアケメネス朝時代の支配体制、行政機構を受け継いでいました。
そのため高官たちのマケドニアに対する反乱の企てや不正行為が横行し、粛清はもちろん処刑された高官も複数いました。
その後任にはいずれもマケドニア人がつくこととなり、粛清は政治的なものであったとされています。
そんな帝国の情勢の中、アレクサンドロスは西地中海への遠征を企てます。
遠征の準備を終え紅海を渡ってシナイ半島へ到達し、現在のスペインのジブラルタル海峡まで攻略する計画でした。
ところが、アレクサンドロスは突然熱病を発症し回復することなくバビロンの地でこの世をさることとなります。
紀元前323年6月10日のことでした。
20代にして巨大な帝国を築き上げ、東西の文化を繋ぎ歴史に転換期をもたらしたアレクサンドロス大王の死去は、その後誰がその意志を引き継ぐかを巡る戦争に発展するほど偉大なものでした。
彼の功績は、2000年以上経った現在も決して色あせることはありません。
アレクサンドロス/アレクサンドロスの東方遠征(世界史の窓)
アレクサンドロスの遠征(Vivo)
アカデメイア(コトバンク)
グラニコス川の戦い(HISTORIA)
アッリアノス(weblio)