プロフィール
・生没年 1769~1821 ・配偶者 ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ (1796年 - 1809年) マリア・ルイーザ (1810年 - 1821年) ・主な親族 カルロ・ブォナパルテ(父) マリア・レティツィア・ボナパルト(母) ジョゼフ・ボナパルト(兄) ルイ・ボナパルト(弟) シャルル=ルイ=ナポレオン・ボナパルト(ナポレオン3世)(甥) ・同時代に活躍した人物 ジョージ・ワシントン(アメリカ合衆国初代大統領) 杉田玄白(解体新書の翻訳)
<貴族政治に終止符!世界史に激震を与えた世紀の革命家>
フランス市民は絶対王政によって弾圧に苦しみフランス革命を起こし、いくつもの暫定的な政権が起こっては消えていった。そんな不安定期に台頭したのがナポレオンである。
18世紀末から19世紀初頭にかけて活躍したフランスの皇帝で、コルシカ島出身の軍人である。フランス革命中、ジャコバン派(フランス革命期の左翼政治党派)を支持し、1793年12月に革命派の手中にあったツーロン港の砲撃を指揮して奪回に成功し、准将に昇進、功績をあげたが、民衆の不満が爆発して起こったテルミドール反乱で一時投獄された。
その後96年にイタリア遠征軍司令官に任命されオーストリアを撃破し、一気に名声を高めることとなった。98年エジプトへ遠征した後、民衆の支持を得て99年のクーデターによって統領政府と呼ばれる新しい政府をを樹立、事実上の独裁権を掌握した。1804年に国民投票を実施し、圧倒的支持でナポレオン1世と名を改めて皇帝に就任した。英雄となり絶頂を迎えたナポレオンであったが、1814年のモスクワ遠征、翌年のワーテルローの戦いで相次いで敗戦し退位、大西洋のセントヘレナ島へ流刑となり、1821年にその地で生涯を終えた。
能力パラメーター
指導力:5
ナポレオンは27歳という若さでフランス軍のイタリア遠征指揮官に任命され、数的には圧倒的な劣勢の中、見事サルデーニャ・オーストリア連合軍を破り、ヨーロッパ各国にその名を轟かせた。そして何と言っても、ナポレオンが革命期の混乱状態を終結させ安定させたことは、説明するまでもなくその秀でた指導力を象徴している。
人望:5
度重なる遠征で、何度も部下をまとめ上げたことから、彼の人心掌握術は優れたものであったと言えるだろう。また、一度敗戦してエルバ島へ渡って間もなく本土へ帰還し、短い期間ではあったものの皇帝の地位を再び手に入れることができたのは、彼の人望の暑さがあってこそのものだある。
政治力:5
彼は一連のヨーロッパ各国への遠征という対外政策だけでなく、内政面でもフランスを大きく変えた人物であった。フランス銀行を設立し、教育制度の改革にも取り組んだ。そして、後世に残るものとして最も評価されているのはフランス民法典の編纂である。
知力:4
劣勢を跳ね返す巧みな戦術や、皇帝就任後のトラファルガー沖の海戦でのイギリスに対しての敗北ですぐにイギリスを諦め大陸制覇に移る決断力、周辺国の王を親族で固めるといった行動など、ナポレオンは世界史でも屈指の知将であったと言える。しかし、モスクワ遠征では、ロシア側の思惑にはまり極寒のロシアでの焼き払い戦術に苦しむこととなった。
思想家:4
ナポレオンは政治家、皇帝として名を残しているが、同時に、優秀な詩人、思想家でもあった。人間観察力に長けており、思想家としていくつもの名言を残している。「愚人は過去を、賢人は現在を、狂人は未来を語る。」というナポレオンの残した言葉がある。これは過去に縛られず歴史に新たなページを刻んだナポレオン=ボナパルトらしい言葉ではないだろうか。
<出生から覇権への道>
1769年に地中海西部のコルシカ島の貧しい貴族の家に生まれる。当時はナポレオーネ・ディ・ブオナパルテというイタリア人風の名前であった。フランスの士官学校を卒業し砲兵将校となったが、1793年、コルシカ島の独立運動に参加し、指導者と衝突し家族でフランスに亡命した。亡命後は革命軍に加わり、その才能を認められた。
1794年のテルミドール9日のクーデターの際には彼はロベスピエール派(中道左派勢力)とみなされ一時投獄され、地位を失ったものの、パリの王党派(右翼、国王を擁護する勢力)の反乱を鎮圧したことで総裁政府の信頼を得た。オーストリアを攻略するための1796年のイタリア遠征では、当時27歳であったナポレオンが司令官に抜擢され、サルデーニャ・オーストリア連合軍を破った。フランス軍実数25000に対しサルデーニャ・オーストリア連合軍70000と、数では明らかに劣っていたがサルデーニャ王が休戦を申し入れ、サヴォイアとニース地方のフランスへの割譲や、賠償金(戦争に敗北した側が勝利した側へ支払う金銭のこと)支払い、イタリア北部ピエモンテ地方へのフランス軍通過の容認等の条件を飲ませた。翌97年にオーストリアへと迫り、和約を結んだことで第1回対仏大同盟(イギリスをはじめとした各国が革命がすすむフランスの脅威に立ち向かおうと結束した同盟。当時、ヨーロッパは絶対王政であり、フランス革命により民主化の波が自国にも押し寄せることをヨーロッパ各国の貴族は恐れた。)を崩壊させる事に成功した。
1798年、イギリスのインド支配を阻む目的でナポレオンはエジプト遠征を率いた。ところが、エジプトの占領には成功したものの、フランス艦隊はアブキールでイギリスのネルソン艦隊に敗北し、エジプトに釘付けとなった。一方、1799年にはイギリスやロシア、オーストリアが第2回対仏大同盟が結ばれ、国内の政治状況も考慮し、ナポレオンは軍をエジプトに残してフランスに戻ることとなった。
ナポレオンが国内の実質的な最高権力者に上り詰めたのもこの年のことである。国内の有力者(シェイエス、タレーラン、フーシェら)の協力の元、クーデターの計画が図られた。1799年11月9日、ついにナポレオンは軍を率いてクーデターを実行した。総裁政府を倒し、臨時統領政府を樹立したこの出来事は、その日が革命暦ブリュメール18日であったことから、ブリュメール18日のクーデターと呼ばれる。新憲法が作られ、国民投票で圧倒的多数の賛成をえてクーデターは承認された。4院制の議会、3人の統領(執政)からなる政府が組織され、ナポレオンは任期10年の第一統領(あくまでリーダーは3人いるという前提)となって独裁的な権力を掌握した。
<ナポレオン帝国と大陸制覇>
1800年、ナポレオンはオーストリアとの戦争を再開しこれを破り、翌年、リュネヴィル(フランスの都市)でオーストリアとの講和を結んだ。1802年、イギリスとアミアンの和約を結んだ。この二つの講和によって、一時的ではあったがヨーロッパには戦争のない国際平和がもたらされた。革命以来フランス政府と関係が悪化していた教皇に対しても、ナポレオンは1801年に宗教協約(コンコルダート)を結び、フランスにカトリック復活を認めて和解した。
1802年に終身統領となったナポレオンは、1804年の国民投票でナポレオン1世として皇帝となり、第一帝政という政治体制を開いた。また、この時の国民投票の結果は357万2339対2579という圧倒的多数の大差であった。この後、ナポレオンは再び積極的な対外政策を推し進め、大陸制覇へと歩みだした。
イギリス首相ピットは、フランスの第一帝政に対抗して、1805年5月、オーストリア、ロシアを誘って第3回対仏大同盟を結成した。ナポレオンはイギリス侵攻計画を立てたが、同年10月、ジブラルタル海峡北西のトラファルガー沖の海戦でフランス・スペイン連合艦隊はネルソン率いるイギリス艦隊に破れた。この敗北でナポレオンは対イギリス上陸作戦を断念し、大陸制覇に方針を変えたのである。一方、陸上の戦いでは大きな勝利を収めた。同年12月、現在のチェコの地で行われたアウステルリッツの戦い(三帝会戦)では、ナポレオンはロシア(アレクサンドル1世)・オーストリア(神聖ローマ皇帝フランツ2世)両軍を撃破し、第3回対仏大同盟を崩壊させた。
その後、イタリア、オランダを支配下においたナポレオンは、1806年西南ドイツ16の国をまとめ、ナポレオンを盟主とするライン同盟という連邦国家を結成した。これにより、800年以上続いた神聖ローマ帝国は完全消滅した。プロイセン(現在のドイツ北部とポーランド北部にあたる)、ロシアはナポレオンを脅威に感じ、フランスに宣戦した。しかしナポレオンの勢いは止まることなく、1807年、ティルジット条約で両軍に屈辱的な内容の講和を押し付けた。プロイセンは領土の半分を失い、賠償金と軍備の制限が課せられた。また、ポーランドにはワルシャワ大公国が建てられた。
これによりナポレオンはヨーロッパの大部分を支配下におくことに成功。支配国の王も、ナポレオンの一族が務めた。弟ルイはオランダ王、兄ジョゼフはナポリ王となった。オーストリア、プロイセン、ロシアはフランスの同盟国とされ、協力を要請された。1809年ナポレオンは皇后ジョゼフィーヌと離婚し、翌10年オーストリア皇女のマリア=ルイーザを后とし、ヨーロッパの旧勢力との結びつきをはかった。
<大陸封鎖とナショナリズムの台頭>
ナポレオンは、ヨーロッパ大陸の大部分の支配に成功したが、イギリスの対抗に苦戦を強いられていた。フランスに屈しないイギリスに対して、1806年にベルリン勅令(大陸封鎖令)を出し、大陸諸国にイギリスとの貿易および通信を全面的に禁止した。イギリスとその植民地の商品の取り引き、その地域からの船の入港も禁止した。これには、イギリスに対して経済的圧力を加えるだけでなく、フランス産業資本にヨーロッパ大陸市場を確保しようとする目的もあった。ところが、それは同時に、イギリスに穀物を輸出しイギリスから生活必需品と工業製品を輸入しているロシア、プロイセン、オーストリアにとっては、自国の経済が破壊されることを意味した。フランスの工業製品はイギリスに比べ高く、フランスは農業国であるため穀物の輸入を必要としなかったからである。大陸封鎖令は、当時のヨーロッパの経済システムを無視開いたものであったのだ。
ナポレオンの制服は、自由・平等のフランス革命精神を非征服地の諸民族に広めた。
自由の精神は、圧政に対する抵抗、フランスの支配からの独立など、ナポレオン支配下諸民族のナショナリズム、反ナポレオン運動を生み出した。
プロイセンでは、ナポレオン支配下でシュタイン、ハンデンベルクらが指導して改革が行われた。農奴解放、都市自治制度の改革、中央行政機構改革などである。フランスの制度を学んだ軍制改革は、グナイゼナウやシャルンホルストが進めた。また、フンボルトは教育改革を行い、ベルリン大学が創設された。フィヒテは、「ドイツ国民に告ぐ」という講演で戦争の敗北で自信を喪失したドイツ人の愛国心を鼓舞した。
ナポレオンの兄ジョゼフが王となったスペインでは、1808年5月に首都マドリードで市民の反乱がおこった。この反乱はフランス軍によって鎮圧されたが、反乱と抵抗はスペイン各地に広がり、1814年までゲリラ活動が起こりナポレオンを悩ませた。
<ナポレオン帝国の崩壊>
画像・セントヘレナ島
天下を築きあげたナポレオンの第一帝政はロシアへの遠征を機に崩壊の一途をたどることとなる。ナポレオンの大陸封鎖令は穀物をイギリスに輸出していたロシアの農業経営に大きな打撃を与えるものであった。1812年、ロシアは大陸封鎖令に反してイギリスへの穀物輸出を再開した。これに制裁を加えるためナポレオンは60万の大軍を動員し、5月に大遠征を開始した(モスクワ遠征)。ロシア軍は戦いを避け、ゆっくりと後退し、ナポレオン軍をロシア本土の奥へと引きずりこんだ。9月14日、モスクワに入城したが、ロシアの焦土作戦によってモスクワは大火となり、10月にナポレオン軍は脱却を余儀なくされた。帰途、ナポレオン軍は宿泊所の不足に苦しめられ、ロシア正規軍、農民、ゲリラ軍の追撃を受けほぼ壊滅状態となり、遠征は大失敗に終わる。ロシア軍は、撤退するナポレオン軍のあとを追ってナポレオン帝国に侵入した。
この敗北を機に、ヨーロッパ諸国はナポレオンとの同盟を離れ、1813年、イギリス・プロイセン・オーストリア・スウェーデンはロシアと結び、第4回対仏大同盟を結成した。同年10月に始まった諸国民戦争と呼ばれるライプツィヒの戦いでは、プロイセン・オーストリア・ロシア同盟軍がナポレオン軍に大勝し、1814年4月にパリに入城した。同盟軍はナポレオンに年金を渡して退位させ、エルバ島に隠退させた。ナポレオンの息子への譲位は認められず、ルイ16世の弟がパリに帰り、ルイ18世として即位し、ブルボン朝が復活し、革命以前の体制に戻った。
ルイ18世の反動的な政治は国内に多くの敵を作り出した。ナポレオン戦争後の諸問題を解決するためにウィーンで国際会議が開催された。これが、ウィーン会議(1814年9月~15年6月)である。ところが、参加国の利害の対立から会議は混乱し、ルイ18世復位への国民の不満が、ナポレオンのエルバ島脱出を許した。ナポレオンは15年3月にフランス南部に上陸し、支持者をくわえながら北上した。ルイ18世はベルギーに逃亡し、パリへ戻ったナポレオンは皇帝への復位を宣言した。ヨーロッパ諸国は第5回対仏大同盟を結成し、ナポレオンとの最終決戦に挑むこととなる。1815年、ベルギーのワーテルローで、ナポレオンはイギリスとプロイセンとの戦いに破れ、完敗した。復活した皇帝ナポレオンの支配が短期間で終わったことから、この一時的なナポレオンの支配を「百日天下」という。投降したナポレオンは、大西洋の孤島であるセントヘレナ島に送られ、この地で1821年、その生涯を終えた。