ナポレオン/世界の偉人伝

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プロフィール

・生没年 1769~1821

・配偶者  ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ (1796年 - 1809年)
      マリア・ルイーザ (1810年 - 1821年)

・主な親族  カルロ・ブォナパルテ(父)
       マリア・レティツィア・ボナパルト(母)
       ジョゼフ・ボナパルト(兄)
       ルイ・ボナパルト(弟)
       シャルル=ルイ=ナポレオン・ボナパルト(ナポレオン3世)(甥)

・同時代に活躍した人物 ジョージ・ワシントン(アメリカ合衆国初代大統領)
             杉田玄白(解体新書の翻訳)



 

<貴族政治に終止符!世界史に激震を与えた世紀の革命家>

 フランス市民は絶対王政によって弾圧に苦しみフランス革命を起こし、いくつもの暫定的な政権が起こっては消えていった。そんな不安定期に台頭したのがナポレオンである。

18世紀末から19世紀初頭にかけて活躍したフランスの皇帝で、コルシカ島出身の軍人である。フランス革命中、ジャコバン派(フランス革命期の左翼政治党派)を支持し、1793年12月に革命派の手中にあったツーロン港の砲撃を指揮して奪回に成功し、准将に昇進、功績をあげたが、民衆の不満が爆発して起こったテルミドール反乱で一時投獄された。

 その後96年にイタリア遠征軍司令官に任命されオーストリアを撃破し、一気に名声を高めることとなった。98年エジプトへ遠征した後、民衆の支持を得て99年のクーデターによって統領政府と呼ばれる新しい政府をを樹立、事実上の独裁権を掌握した。1804年に国民投票を実施し、圧倒的支持でナポレオン1世と名を改めて皇帝に就任した。英雄となり絶頂を迎えたナポレオンであったが、1814年のモスクワ遠征、翌年のワーテルローの戦いで相次いで敗戦し退位、大西洋のセントヘレナ島へ流刑となり、1821年にその地で生涯を終えた。

 

能力パラメーター

スライド1

 

指導力:5

 ナポレオンは27歳という若さでフランス軍のイタリア遠征指揮官に任命され、数的には圧倒的な劣勢の中、見事サルデーニャ・オーストリア連合軍を破り、ヨーロッパ各国にその名を轟かせた。そして何と言っても、ナポレオンが革命期の混乱状態を終結させ安定させたことは、説明するまでもなくその秀でた指導力を象徴している。

人望:5

 度重なる遠征で、何度も部下をまとめ上げたことから、彼の人心掌握術は優れたものであったと言えるだろう。また、一度敗戦してエルバ島へ渡って間もなく本土へ帰還し、短い期間ではあったものの皇帝の地位を再び手に入れることができたのは、彼の人望の暑さがあってこそのものだある。

政治力:5

 彼は一連のヨーロッパ各国への遠征という対外政策だけでなく、内政面でもフランスを大きく変えた人物であった。フランス銀行を設立し、教育制度の改革にも取り組んだ。そして、後世に残るものとして最も評価されているのはフランス民法典の編纂である。

知力:4

 劣勢を跳ね返す巧みな戦術や、皇帝就任後のトラファルガー沖の海戦でのイギリスに対しての敗北ですぐにイギリスを諦め大陸制覇に移る決断力、周辺国の王を親族で固めるといった行動など、ナポレオンは世界史でも屈指の知将であったと言える。しかし、モスクワ遠征では、ロシア側の思惑にはまり極寒のロシアでの焼き払い戦術に苦しむこととなった。

思想家:4

  ナポレオンは政治家、皇帝として名を残しているが、同時に、優秀な詩人、思想家でもあった。人間観察力に長けており、思想家としていくつもの名言を残している。「愚人は過去を、賢人は現在を、狂人は未来を語る。」というナポレオンの残した言葉がある。これは過去に縛られず歴史に新たなページを刻んだナポレオン=ボナパルトらしい言葉ではないだろうか。

 

<出生から覇権への道>

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 1769年に地中海西部のコルシカ島の貧しい貴族の家に生まれる。当時はナポレオーネ・ディ・ブオナパルテというイタリア人風の名前であった。フランスの士官学校を卒業し砲兵将校となったが、1793年、コルシカ島の独立運動に参加し、指導者と衝突し家族でフランスに亡命した。亡命後は革命軍に加わり、その才能を認められた。

 1794年のテルミドール9日のクーデターの際には彼はロベスピエール派(中道左派勢力)とみなされ一時投獄され、地位を失ったものの、パリの王党派(右翼、国王を擁護する勢力)の反乱を鎮圧したことで総裁政府の信頼を得た。オーストリアを攻略するための1796年のイタリア遠征では、当時27歳であったナポレオンが司令官に抜擢され、サルデーニャ・オーストリア連合軍を破った。フランス軍実数25000に対しサルデーニャ・オーストリア連合軍70000と、数では明らかに劣っていたがサルデーニャ王が休戦を申し入れ、サヴォイアとニース地方のフランスへの割譲や、賠償金(戦争に敗北した側が勝利した側へ支払う金銭のこと)支払い、イタリア北部ピエモンテ地方へのフランス軍通過の容認等の条件を飲ませた。翌97年にオーストリアへと迫り、和約を結んだことで1回対仏大同盟(イギリスをはじめとした各国が革命がすすむフランスの脅威に立ち向かおうと結束した同盟。当時、ヨーロッパは絶対王政であり、フランス革命により民主化の波が自国にも押し寄せることをヨーロッパ各国の貴族は恐れた。)を崩壊させる事に成功した。

 1798年、イギリスのインド支配を阻む目的でナポレオンはエジプト遠征を率いた。ところが、エジプトの占領には成功したものの、フランス艦隊はアブキールでイギリスのネルソン艦隊に敗北し、エジプトに釘付けとなった。一方、1799年にはイギリスやロシア、オーストリアが第2回対仏大同盟が結ばれ、国内の政治状況も考慮し、ナポレオンは軍をエジプトに残してフランスに戻ることとなった。

 ナポレオンが国内の実質的な最高権力者に上り詰めたのもこの年のことである。国内の有力者(シェイエス、タレーラン、フーシェら)の協力の元、クーデターの計画が図られた。1799年11月9日、ついにナポレオンは軍を率いてクーデターを実行した。総裁政府を倒し、臨時統領政府を樹立したこの出来事は、その日が革命暦ブリュメール18日であったことから、ブリュメール18日のクーデターと呼ばれる。新憲法が作られ、国民投票で圧倒的多数の賛成をえてクーデターは承認された。4院制の議会、3人の統領(執政)からなる政府が組織され、ナポレオンは任期10年の第一統領(あくまでリーダーは3人いるという前提)となって独裁的な権力を掌握した。

 

<ナポレオン帝国と大陸制覇>

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 1800年、ナポレオンはオーストリアとの戦争を再開しこれを破り、翌年、リュネヴィル(フランスの都市)でオーストリアとの講和を結んだ。1802年、イギリスとアミアンの和約を結んだ。この二つの講和によって、一時的ではあったがヨーロッパには戦争のない国際平和がもたらされた。革命以来フランス政府と関係が悪化していた教皇に対しても、ナポレオンは1801年に宗教協約(コンコルダート)を結び、フランスにカトリック復活を認めて和解した。

 1802年に終身統領となったナポレオンは、1804年の国民投票でナポレオン1世として皇帝となり、第一帝政という政治体制を開いた。また、この時の国民投票の結果は357万2339対2579という圧倒的多数の大差であった。この後、ナポレオンは再び積極的な対外政策を推し進め、大陸制覇へと歩みだした。

 イギリス首相ピットは、フランスの第一帝政に対抗して、1805年5月、オーストリア、ロシアを誘って第3回対仏大同盟を結成した。ナポレオンはイギリス侵攻計画を立てたが、同年10月、ジブラルタル海峡北西のトラファルガー沖の海戦でフランス・スペイン連合艦隊はネルソン率いるイギリス艦隊に破れた。この敗北でナポレオンは対イギリス上陸作戦を断念し、大陸制覇に方針を変えたのである。一方、陸上の戦いでは大きな勝利を収めた。同年12月、現在のチェコの地で行われたアウステルリッツの戦い(三帝会戦)では、ナポレオンはロシア(アレクサンドル1世)・オーストリア(神聖ローマ皇帝フランツ2世)両軍を撃破し、第3回対仏大同盟を崩壊させた。

 その後、イタリア、オランダを支配下においたナポレオンは、1806年西南ドイツ16の国をまとめ、ナポレオンを盟主とするライン同盟という連邦国家を結成した。これにより、800年以上続いた神聖ローマ帝国は完全消滅した。プロイセン(現在のドイツ北部とポーランド北部にあたる)、ロシアはナポレオンを脅威に感じ、フランスに宣戦した。しかしナポレオンの勢いは止まることなく、1807年、ティルジット条約で両軍に屈辱的な内容の講和を押し付けた。プロイセンは領土の半分を失い、賠償金と軍備の制限が課せられた。また、ポーランドにはワルシャワ大公国が建てられた。

 これによりナポレオンはヨーロッパの大部分を支配下におくことに成功。支配国の王も、ナポレオンの一族が務めた。弟ルイはオランダ王、兄ジョゼフはナポリ王となった。オーストリア、プロイセン、ロシアはフランスの同盟国とされ、協力を要請された。1809年ナポレオンは皇后ジョゼフィーヌと離婚し、翌10年オーストリア皇女のマリア=ルイーザを后とし、ヨーロッパの旧勢力との結びつきをはかった。

 

<大陸封鎖とナショナリズムの台頭>

 ナポレオンは、ヨーロッパ大陸の大部分の支配に成功したが、イギリスの対抗に苦戦を強いられていた。フランスに屈しないイギリスに対して、1806年にベルリン勅令(大陸封鎖令)を出し、大陸諸国にイギリスとの貿易および通信を全面的に禁止した。イギリスとその植民地の商品の取り引き、その地域からの船の入港も禁止した。これには、イギリスに対して経済的圧力を加えるだけでなく、フランス産業資本にヨーロッパ大陸市場を確保しようとする目的もあった。ところが、それは同時に、イギリスに穀物を輸出しイギリスから生活必需品と工業製品を輸入しているロシア、プロイセン、オーストリアにとっては、自国の経済が破壊されることを意味した。フランスの工業製品はイギリスに比べ高く、フランスは農業国であるため穀物の輸入を必要としなかったからである。大陸封鎖令は、当時のヨーロッパの経済システムを無視開いたものであったのだ。

 ナポレオンの制服は、自由・平等のフランス革命精神を非征服地の諸民族に広めた。

 自由の精神は、圧政に対する抵抗、フランスの支配からの独立など、ナポレオン支配下諸民族のナショナリズム、反ナポレオン運動を生み出した。

 プロイセンでは、ナポレオン支配下でシュタイン、ハンデンベルクらが指導して改革が行われた。農奴解放、都市自治制度の改革、中央行政機構改革などである。フランスの制度を学んだ軍制改革は、グナイゼナウやシャルンホルストが進めた。また、フンボルトは教育改革を行い、ベルリン大学が創設された。フィヒテは、「ドイツ国民に告ぐ」という講演で戦争の敗北で自信を喪失したドイツ人の愛国心を鼓舞した。

 ナポレオンの兄ジョゼフが王となったスペインでは、1808年5月に首都マドリードで市民の反乱がおこった。この反乱はフランス軍によって鎮圧されたが、反乱と抵抗はスペイン各地に広がり、1814年までゲリラ活動が起こりナポレオンを悩ませた。

 

<ナポレオン帝国の崩壊>clouds-3593601_640 (1).jpg

画像・セントヘレナ島

 天下を築きあげたナポレオンの第一帝政はロシアへの遠征を機に崩壊の一途をたどることとなる。ナポレオンの大陸封鎖令は穀物をイギリスに輸出していたロシアの農業経営に大きな打撃を与えるものであった。1812年、ロシアは大陸封鎖令に反してイギリスへの穀物輸出を再開した。これに制裁を加えるためナポレオンは60万の大軍を動員し、5月に大遠征を開始した(モスクワ遠征)。ロシア軍は戦いを避け、ゆっくりと後退し、ナポレオン軍をロシア本土の奥へと引きずりこんだ。9月14日、モスクワに入城したが、ロシアの焦土作戦によってモスクワは大火となり、10月にナポレオン軍は脱却を余儀なくされた。帰途、ナポレオン軍は宿泊所の不足に苦しめられ、ロシア正規軍、農民、ゲリラ軍の追撃を受けほぼ壊滅状態となり、遠征は大失敗に終わる。ロシア軍は、撤退するナポレオン軍のあとを追ってナポレオン帝国に侵入した。

 この敗北を機に、ヨーロッパ諸国はナポレオンとの同盟を離れ、1813年、イギリス・プロイセン・オーストリア・スウェーデンはロシアと結び、第4回対仏大同盟を結成した。同年10月に始まった諸国民戦争と呼ばれるライプツィヒの戦いでは、プロイセン・オーストリア・ロシア同盟軍がナポレオン軍に大勝し、1814年4月にパリに入城した。同盟軍はナポレオンに年金を渡して退位させ、エルバ島に隠退させた。ナポレオンの息子への譲位は認められず、ルイ16世の弟がパリに帰り、ルイ18世として即位し、ブルボン朝が復活し、革命以前の体制に戻った。

 ルイ18世の反動的な政治は国内に多くの敵を作り出した。ナポレオン戦争後の諸問題を解決するためにウィーンで国際会議が開催された。これが、ウィーン会議(1814年9月~15年6月)である。ところが、参加国の利害の対立から会議は混乱し、ルイ18世復位への国民の不満が、ナポレオンのエルバ島脱出を許した。ナポレオンは15年3月にフランス南部に上陸し、支持者をくわえながら北上した。ルイ18世はベルギーに逃亡し、パリへ戻ったナポレオンは皇帝への復位を宣言した。ヨーロッパ諸国は第5回対仏大同盟を結成し、ナポレオンとの最終決戦に挑むこととなる。1815年、ベルギーのワーテルローで、ナポレオンはイギリスとプロイセンとの戦いに破れ、完敗した。復活した皇帝ナポレオンの支配が短期間で終わったことから、この一時的なナポレオンの支配を「百日天下」という。投降したナポレオンは、大西洋の孤島であるセントヘレナ島に送られ、この地で1821年、その生涯を終えた。

 

曹操 孟徳/世界の偉人伝

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月岡芳年 「南屏山昇月 曹操」:パブリックドメインQより引用

プロフィール

・生没年 155〜220年

・性別 男

・出生地 豫州沛国譙県(ヨシュウハイコクショウケン。現在の安徽省亳州市譙城区)

・死没地 豫州河南郡洛陽(ヨシュウカナングンラクヨウ。現在の河南省洛陽市)

・所属勢力 後漢(ゴカン)→魏(ギ)

・地位、称号、階級 魏王(ギオウ)
          丞相(ジョウショウ)
          諡(オクリナ。死後に中国の高い位の者に与えられる名前。):武王(ブオウ)
          廟号(ビョウゴウ。「廟」とは死者が祀られる施設の事。「廟号」は祀られる際に使われる名前の事。):太祖(タイソ。王朝の始祖に使われる廟号。死後はこの名前が用いられる。)

・親族 曹丕(ソウヒ。次男。最終的な後継者。)
    曹昂(ソウコウ。長男。若くして死ぬ。)
    曹植(ソウショク。五男。詩で名を残す。)
    曹仁(ソウジン。従兄弟)
    夏侯惇(カコウトン。従兄弟)
    夏侯淵(カコウエン。従兄弟)

・同時代に活躍した人物 マルクス・アウレリウス・アントニヌス
            カラカラ帝

<中国の大部分を統一した「乱世の奸雄」>

   三国時代の1各を担う最大勢力魏国を築き上げた時代の覇者。黄巾の乱(コウキンノラン。後漢末期184年中国各地で起きた大反乱)で頭角を表し、強敵だった諸侯(天下統一を目指した群雄のこと)呂布(リョフ)袁術(エンジュツ)を滅ぼし、中原(当時の中国の中心地)を統一した。その際に後漢(ゴカン。25~220年)の皇帝である献帝(後漢の最後の皇帝。後漢王朝は衰退の一途であったため、権力は無いに等しかった。)を抱き込み、権威を味方にする。河北(中国北部)を支配していた最大のライバル袁紹(エンショウ)を圧倒的な形勢差の中逆転し、河北の平定にも成功する。

 更に中華統一のため南方に攻め込むが、赤壁の戦いにおいて後に蜀を建国する劉備(リュウビ)と江南(中国南方の東部)を支配していた孫権(ソンケン)の連合軍に大敗し、天下三分となる。その後も幾度か南方に攻め込むが、その度に劉備孫権に阻まれた。曹操を表す「治世の能臣、乱世の奸雄カンユウ」とは、安定した治世の元では有能な臣下となるが、乱世では悪の君主となるということ。曹操は乱世に生まれたため、後漢王朝を滅亡に追いやった悪の君主となった。

能力パラメーター

パラメータ

指導力4(5段階で評価)

曹操(ソウソウ)は稀代の兵法家(兵士を上手く率いる術を知っている人)でもあり、史上に残る政治家でもあった。いづれの分野でも時代を牽引し、群雄割拠の時代を三國鼎立(サンゴクテイリツ)へ意図せずとも安定させた第一人者である。官渡(カント)の戦いで1万に満たない兵力で10万の袁紹兵を破るという軍事的才覚と同時に、数々の諸侯で分裂しバラバラになっていた中原と華北を纏め上げる政治的手腕を見せている。

人望5

曹操羅貫中(ラカンチュウ)『三国志演義』では悪役で冷酷無比な人間として描かれている。もちろん史実でも陶謙(トウケン)の部下に父が殺された際に陶謙領地の住民を虐殺するなどの直情的な面を持つが、カリスマ性に優れ多くの有能な武将が曹操のためと付き従った。能力を持った人物はどんな者でも重用し、徹底的に実力主義を貫いた所も曹操への配下の信頼に繋がったと言える。華北を統一し、優れた統治を行った曹操の存在は極めてに大きく、敵方の諸侯も一目置いていた。

政治力5

 軍事的才能が際立っている曹操だが、政治力も時代屈指のものだった。曹操の領地では諸侯など地位のある者の反乱はあったものの、農民の反乱はほとんど無かった。曹操は、戦争がない時は兵士を耕筰させ、流民や農民から公募を募って農地を与えるという屯田制を実施した。そして収穫の5~6割を徴収したのである。これによっての食糧事情は安定し、持久戦に耐えられるようになった。この屯田制は戦時にかなり有利に働いたため、もこれを真似せざる得なかった。

 また、曹操は民が苦しんでいる事を憂いており、この思いを詩に残している。黄巾の乱から群雄割拠の時代までで中国の人口は激減し、飢餓や貧困も蔓延っていたため、曹操はそうした世の中を変えたいという思いがあったのかもしれない。『三国志演義』(三国時代の書物を小説化したのも)にあるような悪役曹操のイメージとは違った一面である。

知略5

  曹操は軍事的采配や政治的決定を合理的に下し、スピード感を持って国を大きくしていった。漢王朝の時代の思想の軸となっていた儒教の考えを強く批判し、合理主義・実力主義を政治の場面で取り入れ、慣習に執着せずに判断できる人物だった。

   暇さえあれば書物を読み漁り、かなりの知識を蓄えていた。名門の生まれであるため書物を読むのは当たり前だったが、かなりの熱量を持って本に向き合い、『孫子の兵法』(春秋時代の紀元前5世紀頃に記された兵法の指南書)の注釈を自分で書き編纂する程だった。今でも曹操が残した『孫子の兵法』は残っており、広く流通されている『孫子の兵法』曹操が編纂したものである。これはかのナポレオンも愛読していたという説がある程で、今でもビジネスの場面で用いられる事がある。2000年にも渡って曹操の知識や経験が残っているという事実は、彼の知略の何よりの証拠だろう。

常識破り5

 曹操は当時蔓延っていた儒教の概念に捉われない政治をし、徹底的な実力主義を敷いた。家柄が悪かとうと犯罪者であろうと有能な者であれば登用し、儒教が重んじる親孝行さや正直さ、無欲さとは関係なく登用した。それは曹操が発令した賢求令にも現れており、「人格破綻者でも犯罪者でもなんでも良いから、才能があれば俺の元に来い。」というお触れを出した。しかし、これは前述の儒教とは異なる考えであり、当時の常識とは異なった考えであり、それによる摩擦も起きた。

〈若い頃は不良だった〉

 曹操は前漢(紀元前206年~8年)初期の丞相(ジョウショウ。行政のトップ。今で言う総理大臣。)だった曹参(ソウシン)の家系に生まれた。若い頃から知識に富み頭も良かったが、素行が悪く周りからの評判は良くなかった。後の宿敵袁紹と結婚式から花嫁を攫うなどの悪事を働いていた不良だった。しかしそんな中、その当時の軍事の最高位であった大尉(今で言う防衛大臣)の橋玄(キョウゲン)曹操の才能を見抜いていた。

 ある時、曹操橋玄(キョウゲン)が紹介した有名な人物鑑定士の許ショウに「治世の能臣、乱世の奸雄」と評されている。これは、前述の通り「安定した世の中であれば良い家臣となるが、乱世の場合は悪の君主となる」ということを意味していた。

<黄巾の乱で頭角を表す>

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黄巾の乱の広がりの様子:WikiPediaCommonsより引用

張角率いる黄巾軍184年2月に各地で一斉に蜂起する。一時は都の洛陽に迫る勢いだった。

 曹操は初め後漢の官僚として仕事に就き、各地の官位を歴任した。出世して洛陽(当時の中国の首都)北部尉に就任し、洛陽北部の賊の討伐と治安の安定を任された。そこで曹操は当時最大の権力を持っていた宦官(多大な権力を握っていた皇帝の世話係)の親族すらも公平に処罰し、地位に関係なく法に照らして厳しく取り締まった。この態度によって権力を持つ者は曹操を嫌ったが、彼は何より法を重んじ処罰したため、やがて法を犯す者はなくなったという。

 184年張角率いる黄巾軍の反乱が起こり、曹操はその討伐を命じられる。曹操はこの戦いで軍勢の指揮官としてのデビューを果たし、皇甫嵩(コウホスウ)朱儁(シュシュン。皇甫嵩共に後漢の将軍)と共に潁川郡(エイセイグン。現在の河南省中部。)で暴れている黄巾軍の討伐に成功した。その後、功績によって太守(群の行政を担う長官。今でいう市長や知事。)に任命されるが、病気を言い訳にしてそれを辞退し隠遁生活を送った。曹操はこの間も読書や武芸の鍛錬を怠らず、自己研鑽を絶やさなかった。

 黄巾の乱は一旦収束したものの後漢は弱体化し、黄巾に続いた各地の反乱を収める事が困難になっていた。そこで霊帝(レイテイ。後漢の皇帝)は黄巾討伐で特に功績が認められた者を西園八校尉とし、皇帝直属の軍隊とした。曹操西園八校尉の1人に選ばれ、名声は更に上がった。

<反董卓連合軍に参加>

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花戏楼 曹操献刀:Wikipedia Commonsより引用

曹操が昼寝していた董卓を暗殺しようとしたシーンを描いた木彫り。この後、暗殺に失敗した曹操は故郷に逃げ帰る。暗殺の記述は『正史三国志』にはないが、董卓のいる都から見つからないように逃げたのは事実のようだ。

 当時絶大な権力を持った宦官の集団である十常侍(ジュウジョウジ)の専横が極まり、十常侍に対する官民からの批判が集まっていた。そのため、将軍らを纏める最上位の役職に就いていた大将軍何進(カシン)は宦官の排斥を画策し、曹操袁紹董卓(トウタク)などの将軍達を招集した。しかし、何進は計画実行前に十常侍の策謀によって殺されたため、曹操袁紹(エンショウ)が宮中に乗り込んで宦官の排斥を行った。その混乱の中、少帝(霊帝の次の皇帝)は行方不明となり、最終的に皇帝を保護したのは董卓(トウタク)だった。

 董卓は皇帝の権威を借りて専横を振るうようになり、相国(丞相よりも上の行政のトップ)に就任する。董卓は暴虐の限りをつくしたので、曹操袁紹董卓を見限って故郷に帰っていった。やがて董卓への批判が更に強まると反董卓連合軍が結成され、曹操もそれに参加する。これには各地の諸侯が参加し、後の呉の礎を作った孫堅(ソンケン)公孫瓚(コウソンサン。劉備の学友)などが連なっていた。

 反董卓連合軍は兵力では董卓を上回っていた。当初孫堅董卓の猛将華雄(カユウ)の首を取るなどの前進があったが、苦戦を強いられた。なぜなら諸侯達は自分の勢力の消耗を避け、戦うのを嫌がったからである。董卓打倒のために立ち上がった連合軍だが一枚岩ではなかったのだ。こうして諸侯達の会議が難航する中、董卓は都の洛陽から長安に移り、防衛の体制を整えてしまった。

 曹操はこうした連合軍の状況に業を煮やし、ほぼ自軍だけで出陣。董卓軍の武将徐栄(ジョエイ)と戦い、奮闘虚しく破れ、自身も肩に矢傷を負う。曹操はそれでも連合軍の武将を熱く説得に掛かるが、やはり自軍の消耗を嫌う諸侯は出陣を嫌がった。曹操は間も無く連合軍を見限り、陣営を離脱した。

<躍進と父の死>

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当時の勢力図:WikipediaCommonsより引用

劉備の文字のある場所一帯が陶謙の領地。曹操に攻められたのち陶謙はまもなく死に、劉備がその領地を継いだ。

 その後、諸侯達は自分の領地を広げようと争い群雄割拠の時代に入る。当然曹操も名乗りを上げ、実力を重んじることを聞きつけ、配下には優秀な将軍や軍師が集まった。

 ある時、100万人の青州(セイシュウ)の黄巾賊が兗州(エンシュウ)を攻めてきた。兗州の領主だった劉岱(リュウタイ)は殺され、劉岱の部下は曹操を兗州の領主として引き入れる。曹操は黄巾賊を打ち破り、兵士30万人とそれ以外の男女100万人を受け入れた。この時引き入れた兵の中から優秀な者を選んで青州兵として組織した。この主力が曹操の躍進の原動力となる。

 青州兵を得て躍進を続けていた曹操であったが、父曹嵩(ソウスウ)が徐州の領主陶謙の部下に殺されたという報を受ける。これに激怒した曹操陶謙の領地を攻め、陶謙軍を攻めるとどころか住民を虐殺するという暴挙に出る。曹操は大変有能だったが、冷酷無比な面も持ち合わせていたのだった。この暴挙によって当時陶謙と関わりのあった劉備(後に三国志の1回を担う蜀を建国する諸侯)と対立し、暫くは陶謙の領地を併合できなかった。

<最大のライバル袁紹との対決>

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袁紹の肖像画:WikipediaCommonsより引用

 曹操呂布袁術(エンジュツ)といった敵を次々に打ち破り、やがて最大の敵で河北(中国の北方)を統一していた袁紹と相対するようになる。諸侯では曹操派となるか袁紹派となるかで分かれ、概ね袁紹の方が優勢な見方だった。

 予想に反して曹操は、劉備とはぐれ一時的に曹操の元に居た関羽(カンウ。劉備の配下。蜀の名将)の力を借りるなどして、袁紹との初戦に次々勝利を収める。圧倒的な兵力差があった曹操だったが、人材の使い方が上手く、兵の用い方でも上回っていた。

 いよいよ曹操は官渡(カント。中国2大河川の黄河の流れを汲んだ川。またそのほとりの地名)で雌雄を決することになる。初戦で勝利を収めていたとはいえ袁紹の兵力は10万なのに対し、曹操は1万にも満たなかった。官渡での戦いの序章は膠着状態だった。曹操は官渡 城に籠城し、袁紹はやぐらと土の山を築いて曹操の陣営に弓を射た。曹操はたまらずこれに対抗して発石車を作って袁紹側に石を投げた。陣営を出る事のない攻防が続き、両者攻めあぐねる状態が続いた。曹操側は依然として厳しい状況にあり、兵力差に加え兵糧は尽きかけ、戦いが長引くのは曹操にとってかなり不利だった。

 そんな中、袁紹の待遇に不満を持った許攸という曹操の幼馴染が投降してきた。言うには袁紹軍の兵糧は鳥巣(ウソウ)に集結しており、ここを叩けば袁紹は3日も経たずに敗走するのだという。それを信じた曹操は鳥巣を襲撃。袁紹は兵糧を失って慌てて敗走することになる。領地へと逃げ帰った袁紹は病死し、やがて曹操は河北一帯を統一することとなった。

<赤壁の戦いで大敗北する>

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赤壁の戦いが行われた長江の写真:pixabayより引用

 最大の宿敵だった袁紹を倒し、まさに破竹の勢いとなった曹操の目はついに南に向けられることになる。中国の南方中部のケイ州を治めていてた劉表(リュウヒョウ)は死亡し、その息子劉琮(リュウソウ)は幼なかったこともあり、曹操に領土を明け渡してしまう。

 曹操は南方東側の江南を治めていた孫権にも降伏を申し出るが、孫権曹操との徹底抗戦を決め、劉備と同盟を結び、周瑜(シュウユ)を筆頭に赤壁の戦いへと挑む。かくして曹操周瑜との戦いが始まったのだが、周瑜に上手く立ち回られ孫権軍得意の水上の戦いに持ち込まれてしまう。曹操軍は騎馬での戦いが得意で、常に陸上で敵を打ち破ってきた一方、江南は長江があり、水軍での戦いが多いため周瑜率いる水軍は良く訓練されていた。こうした得意分野での戦いができなくなったことに加え、曹操軍では風土病が蔓延して多くの兵士が倒れるという最悪の事態になっていた。

 曹操は10数万の兵士を有し、周瑜の兵は3万、劉備の手勢はわずか2千で、優勢には変わりわなかったものの、こうした状況的不利から戦況は膠着する。この膠着を破ったのは敵方の周瑜だった。周瑜黄蓋(コウガイ)と言う配下の武将を投降させ、曹操の船に火を付けることを画策した。さらにその火が上手く回るように、南東の風が来るじっと待っていたのだった。黄蓋の偽の投降に曹操は騙されてしまい、あっという間に曹操軍の船に火が回り、曹操は敗走した。地の利を奪われる、周瑜の計略を見抜けない等の小さなミスの積み重ねがこの大敗北に繋がってしまったのだった。

<中華統一の夢は叶わず没する>

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清朝時代(1616~1912)の肖像画:WikipediaCommonsより引用

 曹操はその後も幾度か孫権あるいは劉備を攻めるが、なかなか領地を奪うには至らなかった。しかし、国力的な優位や後漢の皇帝を擁していると言う権威的優位は変わらず、攻め込まれることはあっても領地を大きく失うことはなかった。

 曹操は212年に魏公(ギコウ。「公」は中国で使われた「王」に継ぐ爵位。「魏」の名前は後漢の献帝から与えられた。)となり、216年には魏王(ギオウ。「王」は最高の爵位。)まで登り詰め、220年洛陽で崩御した。享年66歳であった。稀代の兵法家、政治家であるだけでなく文化人としても歴史に名を残しており、建安文学(ケンアンブンガク。五言詩を中心とする詩文学)の重要格の一人であり、『孫子の兵法』の編纂者でもあった。非常に多彩な人物だったと言える。

引用、参考文献

・WikipediaCommons様

https://commons.wikimedia.org/wiki/Main_Page

・Wikipedia様

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%B9%E6%93%8D

・『三国志合戦事典(著:藤井勝彦)』