「今日から俺は」から考える1980年代と今
「今日から俺は」映画公開
「今日から俺は」の劇場版が7月17日始まった。コロナ下でどこまで売上を伸ばせるのかと疑問視されていたが、映画公開後最初の土日の動員数は50万人近い数を記録し、作品の人気を改めて実感させられる。
さて、今回はこのドラマを軸に「今の若者にとっての80年代とはどのようなものか」について考えていきたい。
そもそも「今日から俺は」とは
「今日から俺は」の原作は、1988年に少年サンデーで連載の始まった西森博之の漫画である。今回の作品は、2勇者ヨシヒコや映画「銀魂」の監督をつとめた福田雄一が脚本・演出を務め、賀来 賢人・伊藤 健太郎が主演で作成された2018年ドラマシリーズの映画化である。
時代の舞台は1980年代。ヤンキー文化の全盛期であったこの時代に、これまたヤンキーの代名詞である千葉県に同じタイミングで引っ越してきた三橋(賀来賢人)と伊藤(伊藤 健太郎)が「今日から俺は、ツッパリになるぞ」と宣言し、実際に学校の番長になってしまうという話。
キャストには、福田組常連であるムロツヨシや佐藤二郎、そして橋本環奈に清野菜々など豪華な顔ぶれが揃い話題を集めた。
80年代ブーム?
さて、今日このドラマに限らず1980年代を舞台にした作品、または80年代作品のリメイクがたくさん登場してきているように思う。ストレンジャーシングスやIT/イット、BANANA FISHを中心にゴーストバスターズ、トップガン、ジョーカーなど少し考えるだけで、たくさんの作品が挙げることができる。
この現象にはどのような意味があるのだろうか。
映画監督の世代が幼少期を過ごした時代への回帰という意味もあるだろうが、私が注目したいのは現代と80年代の関係性という切り口である。
80年代と僕らの時代
80年代とはどういう時代であったのか。
日本においては、バブル絶頂期で(当時はバブルとは考えていなかったが)このまま世の中はどんどん良くなっていくと信じていた時代で、経済的に一時期アメリカを追い越すか?というところまで迫っていた時代である。
Back to the futureⅢでマーティーが「良いものは全部、メイドインジャパンだよ」なんて言っていたことも思い出す。
アメリカに目を向けるならば、それはトランプ–レーガンという保守の時代の繋がりがキーワードだ。BTTFの一作目で、マーティは、1985年から1955年にタイムスリップするのだが、この1955年もアイゼンハワーの共和党政権時代で、85年と55年の保守という関係性は、度々主張されている。
2016年にトランプ政権が誕生した後、保守とは何か?が考えられる中で、レーガンの、あの時代はどうだったのか?という再確認と再定義が進んでいる動きの中に80年代ブームは位置付けられるだろう。
「今日から俺は」と今
話を戻すと、「今日から俺は」はツッパリの話である。「俺は決められたレールの上を走りたくないんだよ」みたいなセリフを不良少年が言うツッパリのセリフは、決められたレールやツッパる対象があった80年代的なセリフである。学校組織が、社会集団としての機能を弱め、明日が見えにくくなった現代では、ツッパることすら難しい。今の私たちは、「逃げるは恥だが役に立つ」の森山みくりや「ハケンの品格」の派遣社員のように明日への不安で一杯で、ツッパることもできないのだ。だからこそ、今不良ものの作品をシリアスに描くことは無意味になっており、「今日から俺は」のようなコメディーかつ(現実から離れたと言う意味で)ファンタジーでのみ描くことができるのだ。
また、1980年代の作品と規定することで現代を舞台にする作品では許されない80年代的な価値観や表現・関係性を描くことができるという効果も存在する。
例えば、この作品は伊藤健太郎演じる伊藤が、橋本環奈演じる早川京子に対して「女だから喧嘩するな」という姿勢で接している設定があるが、もしこれが現代設定ならアウトだろうと感じる。もちろんこのステレオタイプ的な設定の意味というのは単純ではなく、様々な解釈があると思うが、今見ると1980年代と2020年では大きく価値観が変わったなと考えさせられる。
まとめ
今回は、「今日から俺は」という作品について1980年代と現代というテーマで分析を行った。わざわざ、80年代の関係という面倒なテーマで作品を論じたが、この作品は、福田作品としてめちゃくちゃ面白い作品であると思う。
この作品は現在、HuluなどVODでも見ることができるので是非、今からでも見て、映画館にも足を運んで欲しい。