【緊急避妊薬を巡る法律改正へ】実体験から日本の「性意識」を考える

【緊急避妊薬を巡る法律改正】実体験から日本の「性意識」を考える

なんとか這いつくばってきた婦人科。頑張れ私。

渋谷の婦人科はまだ閉まっていた。
当然だ。平日の朝9時なんだから。
朝だというのに、沢山の同い年の女性がいた。

日本の「性知識」は充分なのか

10月7日、政府は緊急避妊薬について医師の処方箋がなくても薬局で購入できるようにする方針を固めた。2021年にも導入する予定だ。

このニュースは、SNS上で多くの女性から、賛成の声が見られた。

これまで署名活動を行ってきた人たちは、やっとの思いで掴み取ったもの。
まだ通過点ではあるけれど、性意識について男女で問うべき問題だと窓口を広げることができたと思う。

避妊薬が手が届く値段では、近場では、買えない。
欧州やアジアなど世界86カ国では、医師の診察なしで購入することができる中、日本は性意識で遅れを取っていることが分かる事実だ。

避妊薬をまだ薬局で買えない理由は、悪用・乱用を防ぐためなど言われているが、一番は性教育の不十分さがあると思う。

この法案を検討する世代の性知識は十分であろうか。
女性の立場に沿った考えができる人はどれほどいるだろうか。

性はどこかタブー視され、正しい知識を学校から学べなければいけないけれど不十分である。

誰にも言えない。どうすれば良いかわからない。
女性だけが背負う問題では決してない。

私は今年、緊急不妊薬を貰いに勇気を出して婦人科まで足を運んだ。
そのことを思い出せる範囲で振り返って見る。

実体験から「緊急避妊薬」を考える

まだ人通りが少ない時期の渋谷。
ぐちゃぐちゃの髪と崩れたメイクで泣きそうになっていた。
どこからどう見ても朝帰りの女だ。

帰りたい、帰りたいと思ったけど、嘘のような数時間前の記憶が、私を全力で婦人科に行くよう奮い立たせてきていた。

「あぁ…なんてことしちゃったんだろう…」

当時、彼氏もいなかった私は、コロナで久々の外出で完全に舞い上がっていた。いや、病んでいたんだと思う。
友達に誘われ、数人かの知らない人たちと、久々のお酒を楽しむ。カシオレ、ハイボール、テキーラ、ハイボール、ハイボール。ベロンベロンに楽しい気分でフラフラしていた。

そんな私を見かねたのか、12時過ぎ。バラバラと解散していく中で、私はさっき会ったばかりの男と気付いたらタクシーにいて、気付いたら、部屋にいた。いい雰囲気だったのか、自分でもわからないけど。でももう、いいやって思っていた。

それから気付けば朝になり、うっすらゴムつけてないなぁっと思った。
でも考えないようにしていた。
私は人生で初めて遊ぶという体験をし、どうすればいいか分からなかった。

これが、ほんと数時間前のわたしだ。
冷静になり、朝のマックでコーヒーを飲んでいた。なんとなく、パンツが不快な気がして、嫌な事を考えて、おもむろに検索をし始めた。

「避妊 失敗」「妊娠確率」「渋谷 婦人科」

ある婦人科の緊急避妊薬はジェネリックを含めると3種類だ。
一番高く、効果の出るものは、一万円以上。そこから5千円、7千円で妊娠確率が費用により変わっている。学生にとっては高価だ。
もちろん「頭痛」「吐き気」など副作用もある。

数十分迷った。行かなくても大丈夫かもしれない。100%妊娠するわけじゃい。でも次、生理がこなかったら?中絶するときの費用は?

72時間以内に緊急避妊薬を服用すると、約8割の確率で妊娠を防げるらしい。
早いほど、効果はあがる。

かかるかもしれない1万円を捻出しなければいけない事が恨めしい。
せめてあの男にお金さえもらっておけば…最悪な事を考える。
そしてお金だけではない。
タイムリミットも迫っている事にさらに追い討ちをかける。

最初の行為から何時間だ。酔って記憶のない私は指を追って、何時間か考える。寝たい、家に帰って寝たいけど、寝たら死ぬ。

私は意を決して、婦人科に行く決意をした。
誰にも相談できずとにかく不安だった。

這いつくばってきた婦人科。
頑張れ自分。
渋谷の婦人科は、まだ閉まっていた。
当然だ。平日の朝なんだから。
でも朝だというのに、沢山の同い年の女性がいた。
「仲間だー!イェーイ!」
と心の中でハイタッチする気分ではなかった。
全員が目的一致で朝から婦人科に並んでいる訳ではないと思う。
でも、崩れた髪と眠そうな顔で並ぶ女性だけの列は、地獄の入り口かのような風景だった。

婦人科の前に10人以上の女性が並ぶこの現状に、絶望を感じた。
どんな背景があるか分からない。でもきっと婦人科にいる相応の理由があるのだ。

ガラガラガラ。
シャッターが開いて、受付をする。
何十分か待つ時間は、ここ最近で1番長く感じた。副作用、お金、時間、罪、馬鹿だなぁと思いながら怒りの矛先が自分だけになる事に気付いた。

「奴は、奴はなんも思ってないだろ..(いつの間にか奴呼ばわりしていた)」

なぜ女性だけがこんなに悩むのか。抱え込まなければいけないものなんだ。
もっと自分を大切にしないと!そう言われるのは分かってるけど、分かってるけど、、まるでドラマみたいな現象に哀れな自分。
漫画なら確実に、後ろの背景に白黒の縦線が入っていた。絶望。

名前が呼ばれ、医師に一連の出来事を話す。
幸い私は日常的にピル を服用していたことが功を奏し、「多分大丈夫だろう」と言われた。
急いで帰宅して、服用してくださいということだった。

今すぐ飲みたいという気持ちを抑え、泣きそうになりながら、深く頭を下げ、お礼を言った。

結果的に残ったのは、死ぬほど焦る時間とすり減った心だけだ。
バカみたいだった。バカで、バカで、死んでしまいたいと思った。

緊急避妊薬を薬局で

緊急避妊薬を薬局で買えるようにすること。
日本産婦人科医会は「女性の知識不足」を反対の理由にしている。

薬局に避妊薬を置くと、「悪用される」とか「若い女性は性知識がない」「次を防ぐにはどうするかの説明が必要だ」などと言われている。

でも、男性たちが中心となり慎重な意見を話し合っていく中で今もなお、絶望の淵にいる女性を忘れないでほしい。

そして男性が考えもしない所で、何倍もの重さを女性が背負っている事も考えてほしい。

この問題は女性だけの問題ではない。日本全体で性別を問わず性教育の低下が挙げられているのは事実だ。

しかし、環境を整える事を願っていては、先には進まない。今、生理がこないで悶々とする女性はたくさんいると思う。

私は本当にバカな事をした。
性の知識不足だから避妊をしてないのではない。

それでも、間違いを犯してしまう時がある。

緊急避妊薬を薬局に。

それだけで、死にたくなるような絶望から救われる人たちがいる。

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【コロナに感染して私が思ったこと】感染発覚・隔離・回復までの経緯

私のコロナ体験談

最初に

こんにちは。イギリスに住んでいるナミです。

知っている方もいると思いますが、数週間前にコロナにかかりました。幸い症状は軽く済んだものの、未だに嗅覚と味覚はありません

私の大学では感染者が多い為、コロナに感染したこと自体はあまり驚かなかったものの、数週間たった今まだ味覚と嗅覚が戻らないことに不安を思っています。

感染発覚に至るまで

私は学生寮に住んでいるので、多くの人に会うのが必然でした。

また、大学生活が始まって多くの人に会いたいという気持ちで寮内のパーティーにも頻繁に行っていました。

しかし、数日後にかなりの頻度で会っていた友達が陽性だったことから、検査を受けると自分も陽性だったことが分かり直ちに隔離が始まりました。

もちろん、感染する前にパーティーに行っていたことは批判されるべき行動ですが、その一方で私はコロナに感染する前の自分の行動をあまり後悔していません。

そもそも、コロナの感染が広がるから「他の人とは会うな」というような感染対策を大学生に従ってもらうのには無理があるし、誰もが私の状況にいたら同じ事をしていたと思います。今の状況を最大限に楽しもうとした結果がこれです。

自主隔離期間中の私

イギリスと日本での自主隔離に関するアドバイスは少し違うと思いますが、私が隔離していた期間は陽性が発覚した日から一週間だけでした。

NHS(イギリスの医療サービス)によると陽性の場合、二週間の隔離が始まるのは検査の結果が分かった日からではなく、症状が出始めた日からです。私の場合、検査を受ける数日前から少しずつ嗅覚と味覚が無くなっていた為、隔離の期間は短く済みました。

もちろん、その間は外出せずに部屋にいましたが、毎日1時間決まった時間に寮内にあるサッカー場で運動できた為、私にとって隔離は全く苦ではありませんでした

講義も元々オンラインで行われていた為、幸いなことに勉強には遅れは生じませんでした。寮の感染対策の一環として同じ階に住んでいる人とは自由に会っていいという事だったので、毎日同じ階の人とは会っていました。

また、隔離が始まる前に友達の連絡先を聞いていたので、毎日最低2時間は色々な人と電話していたので、あまり寂しいとは感じる事もなかったです。

自分の経験から言いたいこと

まず、「自分はコロナに感染しない」という思い込みは絶対にしてはいけない事

若い人がコロナにかかり体調は悪化するケースは少ないかもしれないですが、それでも感染したら自分だけではなく、周りにも影響は必ず出ます。

また、感染する事態を予想して準備することが大切です。私は大学に行く前にコロナに感染する事を想定していたので、野菜、フルーツ、薬など必要なものは事前に買い溜めし、教授への連絡方法も把握していたので、感染しても自分への生活への影響を最小限に抑えることができました。

ただコロナに感染したら、責任やその影響などは全て自分で負わないといけないので、それを想定しながら行動しないといけません。その覚悟の上で日々過ごすのが大切だと思います。

 

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【青天を衝け】吉沢亮演じる渋沢栄一・民間主導の近代化をめざした彼の原点【温故知新】

渋沢栄一・民間主導の近代化を志向した彼の原点

今、最も注目が集まりつつある歴史上の偉人は誰だろうか。

それは、渋沢栄一だ。

彼は「日本近代経済の父」と称され、関わった社会・公共事業は600以上に及ぶなど、彼の功績は計り知れない。中には現在にも引き継がれている組織も多くあり、今もなお日本経済に大きな影響をもたらしていると言えよう。

渋沢栄一は、吉沢亮主演の2021年度のNHK大河ドラマ「青天を衝け」で主役として取り扱われる予定である。これに留まらず、新一万円札の肖像となることも決定。ここにきて彼の存在に再び注目が集まりつつある。

今回はそんな元祖偉人・渋沢栄一について見ていこう。
彼を知ることで、私たちが生きるこの社会への理解もきっと深まるに違いない。

黎明期・渋沢栄一出生

渋沢栄一は後に第一国立銀行の頭取となり、上記の通り600以上の社会・公共事業の設立支援を行うこととなる。
特筆すべきは農民出身であるにも関わらず、士族さながらの出世を果たした彼の生い立ちだ。
その秘密の一端を、彼の出自から垣間見ることが出来る。早速紹介しよう。

渋沢は1840(天保11)年に、武蔵国血洗島(現在の埼玉県深谷市)にて生れた。もともとここは特段豊かな農村ではなかった。しかしながら、関東に入国した徳川家康が戦国期の争乱をおさめ、江戸時代は比較的平穏であったと言われている。

血洗島のあたりは領主等々の支配構造が安定しており、飢饉や打ち壊しが少なかった。このことも、平穏な時代であったことの理由とされている。

また、中山道の宿場町・深谷宿や、利根川水運の中継地点であった中瀬河岸場があり、血洗島周辺は交通の要衝であった。

つまり、平穏な時代であり交通結節点として栄えた渋沢の故郷は、農家の経営を発展させるには最適な場所だったのだ。

渋沢の一家は村内で一番古い家系。しかし、村内の中心的立場ではありながら、代々小農家であり、お世辞にも裕福であるとは言えなかった。

しかし栄一の父親の代で、藍を仕入れて藍玉に加工し、江戸の商人を介さず群馬、長野、秩父の紺屋に販売するという事業を開始。その新しいビジネスにより、村内で一、二を争う富農へと成長する。

士農工商と身分が固定されたこの時代に、農民が「商人ビジネス」をはじめ、一代にして財を築いたのである。これには先進的であると言わざるを得ない。

そして、積極的に商いに乗り出す父親の背中を見て育った栄一。彼ののちの「商売人」としての気質は、この時に養われたと言っても過言ではないだろう。普通の農民とは違う視点から社会を眺めるようになった訳である。この点で、栄一は普通より恵まれていたのかもしれない。

また、特殊な出自といえば他にもある。親戚である尾高家から四書五経書法など、普通の農民であれば享受できない教育を彼は受けることが出来た。
幼年期に高度なリテラシーを身に着けることが出来たことが、彼の生涯にどう影響したかは最早言うまでもないかもしれない。
「教育」の重要性は現代においてもしきりに叫ばれるが、まさに彼の人生はその最適例ではないか。

農民から幕臣へ、類まれな出世劇

リテラシーを身に着けると、情報感度が上がる。

彼は本格的に学問を志すようになる。1853年にペリーが浦賀に来航しているが、同時期に渋沢も江戸に出て学んでいる。社会情勢が不安定な時期だ

そこから、彼は次第に尊王攘夷運動に加担するようになる。「1863年には栄一も150両ほどの資金で槍や刀など100本ほど揃え―総勢70人ほどで高崎城乗っ取り、横浜焼き討ちを計画した(雨夜譚)」

単なる農村の一青年であった渋沢は、学問に励み、当時としては画期的なビジネスモデルから商業の可能性にいち早く目をつけた。
更には尊王攘夷運動を行い、当時の封建社会制に対しての不満を持つようになった

しかしながら、次第に攘夷の実現可能性に疑問を抱くようになる。
攘夷運動は確かに、実現性が極めて低かった。例えば薩摩藩が薩英戦争でイギリスの軍事力を思い知り、開国派に転じた話は有名だ。

そこで渋沢は一橋家の用人であった平岡円四郎のつてを頼り、尊王思想から一転して幕府側である一橋家の家臣となる。

一橋(徳川)慶喜。一橋家当主。江戸幕府15代目にして最後の征夷大将軍。大政奉還により政権を朝廷に移譲した。

農民出身の為最初は軽輩(下の身分のもの)として加わったものの、渋沢のその能力は高く評価され、最終的には、慶喜の弟、徳川昭武に随行してパリ万博の視察団に加わるという出世を果たしている。

余談だが、彼の出世劇は冷静に考えてもすさまじいものがある。元々一農村出身の青年でしかなかった彼が、幕臣となり、外国視察すら任されている。

外国視察の目的は列強諸国の先進知識収集であるが、途方もない費用がかかる。もちろん飛行機などない時代。いつ沈むともしれない木造船でヨーロッパを目指すのである。しかも外国との交流を一切絶っていた日本から。並みの人間には到底任せられない。「本当に賢く、やり遂げる器量のある人間」にしか成し遂げられない大役だ。

『民が栄えてこその国』彼の社会観形成

さて、パリ万博で渋沢が目にした欧米列強の近代化の進展具合だが、これは彼にとっても非常に衝撃的であった。
近代的軍事技術の展示のほかに、渋沢は鉄道によって結ばれた欧州全体の発展に強く感銘を受けた。
アヘン戦争で清国が敗北し、欧米列強が植民地支配を益々進めようという段で、当時の日本の士農工商幕藩体制といった旧態依然とした部分や、産業構造の未熟さに改めて限界を感じたに違いない。

 

振り返れば、渋沢は父の代から藍玉のビジネスを行っていた。それは作物を栽培するだけの旧来の農民の枠を超えていた。
また江戸の商人を介さず直接遠方と取引を行うなど当時としては画期的であった。

これらのことが、のちの渋沢の民間主導の国家観、言い換えれば市民による積極的な資本主義経済への参加を後押しする姿勢につながっていると言えるのではないだろうか。

また、立身出世を地で行く彼には、身分固定社会は滑稽に映っただろう。
資本主義は、実力主義だ。皆が競い合ってこそ、文明が花開く。
彼はきっとどこかでそう確信していたのではないだろうか。

第一国立銀行

渋沢は大政奉還後、慶喜について駿府にわたり、その後大隈重信の再三の頼みで明治新政府の仕事をするようになるが、最終的には民間に下り、第一国立銀行を創設するに至る。そして、資本主義社会を後押しする為、600もの社会・公共事業に関わった。

名前を変え、形を変え、今にも残る会社もある。彼の功績は、今に生きている

さいごに

渋沢が生きた時代は、我々のそれとは大きく違う。単純比較は出来ない。また彼は一般的な農民に比べ、遥かに恵まれた環境に生まれ落ちた。そのことは否定されるべきでない。

しかしながら、彼の人生から我々が学び取れるものは計り知れない。それが具体的に「何か」はここでは明示しないでおく。

現在、急速な国際化デジタルトランスフォーメーションにより、5年先の未来すら分からない時代に突入しつつある。
そんな変化の時代において、渋沢栄一から学び取れるものは、何だろうか。

島田昌和(2011年)『渋沢栄一 社会起業家の先駆者』岩波新書

https://atomic-temporary-151149301.wpcomstaging.com/2020/06/25/meiji-ishin/

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ミスコンは「悪」なのか ミス東大候補の不信表明から考える

ミスコンは「悪」なのか

容姿に順位をつけることの是非

先日、ミス東大候補者の一人である神谷明采さんがミスコンの主催者である東大広告学研究会への不信感を表明しネット上で話題になっています。

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ミスコンとは、容姿を競うコンテストであり、国や世界といった規模のものから大学の文化祭などで行われるようなものまであります。

ミスコンは注目を集めることが多いですが、最近では一部の大学などで「容姿に順位をつけることはルッキズムを助長する」というような考えからミスコンを廃止する動きが出てきています。

しかし、今回はそもそも容姿をコンテストという形で競うことは悪いことなのか、ということを考えてみたいと思います。

容姿もまた才能である

人間の才能には、「勉強が得意」、「足が速い」、「歌がうまい」など様々な種類のものがあります。

「容姿が優れている」というのもまた、数ある人間の才能の中の一つと考えることができます。

私たちは、生まれ持った才能を磨き、そしてそれを他者と競うことが多々あります。
勉強であれば学校のテスト、歌であればのど自慢大会などがそれにあたるでしょう。

容姿の場合ではこれはミスコンが該当します。

勉強や歌の上手さを競うことは問題なくて、容姿を競うことだけを問題視するような理由は、なにかあるのでしょうか。

ミスコンは競技に過ぎない

それでは、ミスコンの是非について、のど自慢大会を例に考えてみましょう。

のど自慢大会では、ある程度自分の歌唱力に自身のある人達が大会に応募し、そしてその優劣を競います。

これは、あくまで歌の上手さを評価する目的を持った大会の中で競い合っているだけであり、のど自慢大会を行うことによって、歌とは関係ないものも含めた社会生活のあらゆる場面で歌の上手さによってその人の全てを判断されるというようなことにはなりません

陸上競技大会やM-1グランプリでも、身体能力やネタの面白さといったある人間の持つ技能を部分的に取り出してリングの中で競い合っているに過ぎません。

ミスコンも,立候補した人同士で容姿の美しさを競っているわけですから本質的には同じであり、ミスコンを行ったからと言って容姿が良くない人の全てを否定するわけではありません。
となれば、ミスコンだけをことさらに悪に仕立て上げるのが正しいとは言い難いでしょう。

おわりに

歌で人々を魅了する、美貌で人々を魅了する、この2つにはなにか本質的な違いがあるのでしょうか。

生まれ持った才能を磨き、他者と競争することは悪ではないはずです。

そして、ある面で優れていないからといって、それはその人自身が否定するものでもありません。

特定の分野で競争するということの本質を踏まえなければ、ミスコンの是非を語ることはできないのではないでしょうか。

https://atomic-temporary-151149301.wpcomstaging.com/2020/08/17/baishun/

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【国連サミットで採択】SDGsの「自分ごと化」

フィリピンの経験から伝えたいSDGsとは何か

SDGsを知っていますか?

皆さんはSDGsという言葉を聞いたことはありますか?
SDGsジャーナルによると、トルコ、中国では90%以上の人がSDGsを「聞いたことがある」と回答してるのに対し、日本では49%ととても低い結果となっています。
世界28か国の平均は74%で、日本は28か国中28位とまだまだSDGsの認知率が低いことが分かります。

 

SDGsを聞いたことがある!と答えた人の中には「知ってはいるけどよくわからない」という人もいるのではないでしょうか。

SDGsとは Sustainable Development Goals の略で日本語に訳すと持続可能な開発目標となります。2015年9月の国連サミットで採択された2016年から2030年までの国際目標です。持続可能な世界を実現するための17のゴール・169のターゲットから構成され、地球上の「誰一人として取り残さない(leave no one behind)」ことを誓っています。

例えば1の貧困をなくそうというゴールでは
1.1 2030年までに、現在1日1.25ドル未満で生活する人々と定義されている極度の貧困をあらゆる場所で終わらせる。
といった具体的な目標が掲げられています。

遠い存在のように感じていた国際問題

SDGsという言葉を聞いても、貧困の現状を知っても、どこか他人事であるような。そんな感覚でいる人もいると思います。
私も少し前まではそうでした。
貧困や紛争の悲惨な現状を知っても自分とは遠い問題のような気がして、具体的に何をしたらよいかもわからない。
改善するべきだということはわかっていても、突き動かされるような原動力がない。

フィリピンで見た景色

フィリピンのセブ島といえば、何を思い浮かべますか?

青い海と青い空ですか?
果物のジュースを飲みながらゆったりと過ごす南国リゾートのイメージですか?

私が見たものはそんな日本のガイドブックから作られるようなイメージとはかけ離れたものでした。
ショッピングモールが並ぶダウンタウン。
きれいに整備された内装とは異なり、その周辺を取り巻くのはゴミや油などが浮いた水たまり、いたるところであらゆる異臭がします。
海にはプラスチックやレジ袋などのゴミが浮いていました。
また、フィリピンでは水道からでる水はそのまま飲めません。

フィリピンは日本より致死率が高く、現地で出会ったフィリピンの学生にも親しい人を亡くすという経験した人が多くいました。

フィリピンでデング熱などの病気が流行っているのは、気候のせいもあるかもしれませんが、衛生的な問題もあると思いました。

フィクションが現実になった瞬間

小さな子供にお金を要求された。

発展途上国に訪れた人から聞いたことがあるフレーズ。

別に嘘だとは思ってない。嘘だとは思ってないけど、どこかフィクションのお話であるような感覚でいました。
フィリピンで街を歩いている中でストリートチルドレンに遭遇しました。

でこぼこした道を裸足で歩いていました。
教会の前で一生懸命ものを売りつけてくる人に会いました。
道で募金箱をおいてうなだれているホームレスを見ました。
道で横たわっている子供を見ました。

この現状をたたきつけられて、簡単に受け入れるだけの器は私にはありませんでした。
頭を鈍器でたたかれて、脳震盪を起こしているような感覚でした。
お金をせがまれて、ここでお金を渡しても根本的なものは解決できません。

一体どうしたらよいのでしょうか。

自分ごと化

フィリピンから帰国してから思ったことは、買い物する際に、私が「レジ袋いらないです。」と言ったところで世界は変わらないだろうということです。

けど、もし100万人がレジ袋をいらないと言ったら世界は変わるかもしれません

だから1人でも多くの人に意識してもらいたいと思っています。

SDGsを達成するためにはより多くの人がSDGsについて考える必要があると思います。
どうしたら多くの人を巻き込めるのか。

なにか行動を起こすときに必要なのは原動力です。
原動力とは嬉しさ、楽しさ、わくわく、怒り、憎しみなどの感情から生まれます。
そう。人を動かす時には感情を動かすことがキーになるのです。
やらされてやるよりも進んでやるのでは当然熱量が変わってきます。

具体的にどう感情を動かすかというと
諸問題を自分のストーリーに組み込む
ようにすること。

自分の‟学校を創りたい“という夢も、
選択肢がなく、自分のやりたいことが出来なく、不自由さを感じながら過ごした高校時代の経験から来ています。

まさにこれこそ、問題を自分のストーリーに組み込むということに当てはまるのではないかと思っています。
選択肢がなく、人を標準化するという現代の教育の問題に不自由さを感じたということでこの問題を自分ごと化したというわけです。

自分ごと化
今の日本にとって、とても重要なキーワードであると私は感じています。

おわりに

フィリピンの学生はこの状況を打開するために必死で考えていました。
私も一緒に一生懸命考えます。

大きすぎる壁の前にどうしていいかわからず、
ただ突っ立っている状態だけど、私たちは動かなければならない。

2030年まであと10年。

新型コロナウイルスの流行により、ますます世界は厳しい状況になりました。
このペースでは間に合いません。

間違いなく言えることは、世界中全ての人がSDGsについて考えなければこのゴールは達成できない
ということです。

https://timetankcom.wordpress.com/2020/09/16/makeschool/

感染者数再増加!最近のイギリスのコロナ事情

最近のイギリスのコロナ事情

感染者再増加の背景

英国では状況が急速に悪化しています。

10月9日の時点で、新規感染者数は13863人で、1ヶ月前の9月1日の1295人と比較すると大幅に増加している事が分かります。

新規死亡者数も9月初旬の3人から1ヶ月後の10月9日には87人までに増加しています。ほんの1ヶ月前までは状況が安定しているように見えていました。

ではこの1ヶ月で何が起こったのでしょうか。

感染拡大の原因

大学がスタートし、学内でクラスター発生

状況がここまで悪化した一つ目の理由は大学が9月末に始まったことです。

多くの大学が学生に「安全な」環境を提供すると言い、学生を大学に戻した結果、学生らは住んでいる地域からこれまであまり影響を受けていなかった大学周辺の地域にコロナウイルスを持ち込んでしまいました。

これが大学内でのクラスターにつながりました。

例えば、ニューカッスル大学の1000人以上の学生が、ノッティンガム大学では1400人以上が陽性になるという結果なったのです。

大学生、特に一年目の学生は大学という場を最大限に活用し、様々な人と会いたいと誰もが思っています。

私もその一人です。しかしこの思いが学生の軽快な行動に繋がって、かえってウイルスを広めているいる場合もあります。

ですが、それだけでコロナの感染拡大の責任を大学生押し付けるのは正しくないと思っています。

生徒らによるコロナの感染拡大は世界中でもう見られており、イギリスでもこれが起こるはもう目に見えていました。

しかし、それを知りながらも政府がそれを防ぐことができずに、感染者数もこの1ヶ月で増えました。

コロナの接触者追跡システムの不具合

感染が増えたもう1つの理由は、コロナの接触者追跡システムの不具合と検査の数が制限されている事によるものです。

5ヶ月前にジョンソン首相「世界で一番いい」接触者追跡システムと検査体制を整えることを誓いました。

しかし現実は首相の発言とは程遠い事は言うまでもありません。接触者追跡システムの技術的エラーにより、9月25日から10月2日までの間にコロナウイルスの検査で陽性となった16000人と接触した人々には連絡が一切ありませんでした。

これは政府が急増しているコロナウイルス検査の需要に対応できなかったと批判されていた時に起こりました。これだけの事が起これば、コロナの感染が広がっていることに驚くイギリス人はほぼいません。

この感染拡大を受け、イギリス政府は冬の間は在宅勤務を奨励、夜10時から朝5時の間に飲食店の閉鎖を命じ、検査の数を増やしました。

また、感染がより高い地域ではナイトクラブの閉鎖など厳しい規則を課せました。

しかし、今の感染状況を受けより厳しい制限を課すことが予想されています。

最後に

このような状況で大学生になることは、私個人にとっては簡単なことではありませんでした。講義もセミナーもオンラインに移り、少し物足りないと感じる反面、オンラインだから便利になったと思う時もあります。

どうやって今の状況を最大限に活かすことができるのかを考えながら、この一年を頑張りたいと思います。

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https://atomic-temporary-151149301.wpcomstaging.com/2020/08/10/england/

どうですか?「氏姓選択制」

ちょっとまった!「選択的夫婦別姓」

度々議論になる「選択的夫婦別姓」。これは,結婚に際して夫婦は氏をどちらか一方のものに統一しなければならないという現状を変え,統一しても,別々のままでもどちらでも良いという風にしようというものです。一見,氏を変えたいひとにとっても,変えたくない人にとってもメリットしかないようにも思いますが,私はこの「選択的夫婦別姓」に対して「氏の定義が曖昧になってしまう」という観点から慎重な立場を取りたいと思います。

失われた「氏」と「姓」の区別

前提として確認しておきたいのが,「氏」と「姓」の違いについてです。現在ではほぼ区別されていませんが、実は元々この2つは全く異なるものです。我々日本人が使っている「鈴木」とか「佐藤」といったものは「氏」にあたります。これは,夫婦で統一することになっていて,子供もそれを受け継ぐわけですから,基本的にその世帯に対してつけられる名前だということになります。一方「姓」というものもあります。こちらは現在の日本ではほぼ使われておらず、中国や韓国といった国で主に使われています。例えば,韓国大統領の文在寅氏の場合でいうと、「文」がこの姓にあたります。姓は、たとえ結婚してもお互い変わることはなく、子は基本的に父親のものを引き継ぎます。このことから、姓は原則として血統を表しているということが言えます。世帯を表す氏との決定的な違いはここにあります。

今でこそ氏と姓の区別はほぼなくなってしまいましたが,少なくとも戦時中まではこの2つの概念は厳然と区別されていました。その例としてもっともわかりやすいのが,「創氏改名」でしょう。創氏改名というのは、当時日本が統治していた朝鮮の人々に対し、日本式の名前を名乗るようにさせた制度のことです。(強制だったのかどうかという議論についてはここでは触れないことにします)この制度は氏を新たに作らせる「創氏」と、名を日本風に改める「改名」の2つから成り立っているわけですが、この「創氏」というのがまさにポイントです。朝鮮の人々は「姓」は持っていても「氏」は持っていません。そのため「改氏」でも「改姓」でもなく「創氏」だったのです。

壊れる「氏」の定義

ここまで、氏と姓の違いについて見てきましたが、では選択的夫婦別姓によって「氏の定義が曖昧になってしまう」とはどういうことなのでしょうか。(これまでの話に基づけば選択的夫婦別姓は「選択的夫婦別氏」と呼ぶのが正確ですが、一般的には「選択的夫婦別姓」と言われているのでそう呼びたいと思います)先程も述べたように、我々の名乗っている「氏」は世帯を表すものであり、夫婦で統一されるべきものです。そのため、これを無視して「選択的」に別々の場合もOKとしてしまうと氏の定義が完全に壊れてしまって「鈴木」や「佐藤」が何を表しているのか最早わからなくなってしまいます。選択的夫婦別姓の問題点はここあるのです。

氏の定義を壊さない解決策

しかし、選択的夫婦別姓の議論の経緯を考えれば一生同じ名前を名乗っていたいという需要は少なからずあり、それを無視するわけにはいきません。そこで私案として提示したいのが「氏姓選択制」です。これは,氏と姓の区別を現代的にアレンジした上で復活させ、両方とも戸籍に載るが名乗るのはどちらか選べるというものです。例えば,鈴木太郎さんと佐藤花子さんが結婚し、氏を鈴木に統一したという場合で考えてみると、

鈴木太郎(氏:鈴木、姓:鈴木)→鈴木太郎(氏:鈴木、姓:鈴木)
佐藤花子(氏:佐藤、姓:佐藤)→鈴木花子or佐藤花子(氏:鈴木、姓:佐藤)

といった感じになります。さらに、子の氏と姓は親の氏を受け継ぐので、この例では[氏:鈴木、姓:鈴木]となります。この仕組みであれば氏の定義を壊すことなく、しかも結婚しても名乗る名前を変えないという選択肢も用意できます。少々複雑かもしれませんが「氏姓選択制」、いかがでしょうか?

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英雄・ナポレオンってどんな人物?ナポレオン帝国とその生涯

温故知新 U25歴史講座:「ナポレオン・ボナパルト」


名前
ナポレオン・ボナパルト

生きた年代(死没した年齢)
1769~1821

配偶者
ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ (1796年 – 1809年)
マリア・ルイーザ (1810年 – 1821年)

主な親族
カルロ・ブォナパルテ(父)
マリア・レティツィア・ボナパルト(母)
ジョゼフ・ボナパルト(兄)
ルイ・ボナパルト(弟)
シャルル=ルイ=ナポレオン・ボナパルト(ナポレオン3世)(甥)

同時代に活躍した人物
ジョージ・ワシントン(アメリカ合衆国初代大統領)
杉田玄白(解体新書の翻訳)

フランス市民は絶対王政によって弾圧に苦しみフランス革命を起こし、いくつもの暫定的な政権が起こっては消えていった。そんな不安定期に台頭したのがナポレオンである。
18世紀末から19世紀初頭にかけて活躍したフランスの皇帝で、コルシカ島出身の軍人である。フランス革命中、ジャコバン派(フランス革命期の左翼政治党派)を支持し、1793年12月に革命派の手中にあったツーロン港の砲撃を指揮して奪回に成功し、准将に昇進、功績をあげたが、民衆の不満が爆発して起こったテルミドール反乱で一時投獄された。

その後96年にイタリア遠征軍司令官に任命されオーストリアを撃破し、一気に名声を高めることとなった。98年エジプトへ遠征した後、民衆の支持を得て99年のクーデターによって統領政府と呼ばれる新しい政府をを樹立、事実上の独裁権を掌握した。1804年に国民投票を実施し、圧倒的支持でナポレオン1世と名を改めて皇帝に就任した。英雄となり絶頂を迎えたナポレオンであったが、1814年のモスクワ遠征、翌年のワーテルローの戦いで相次いで敗戦し退位、大西洋のセントヘレナ島へ流刑となり、1821年にその地で生涯を終えた。

パラメーターで分析「ナポレオン・ボナパルト」

指導力:5

 ナポレオンは27歳という若さでフランス軍のイタリア遠征指揮官に任命され、数的には圧倒的な劣勢の中、見事サルデーニャ・オーストリア連合軍を破り、ヨーロッパ各国にその名を轟かせた。そして何と言っても、ナポレオンが革命期の混乱状態を終結させ安定させたことは、説明するまでもなくその秀でた指導力を象徴している。

人望:5

 度重なる遠征で、何度も部下をまとめ上げたことから、彼の人心掌握術は優れ
たものであったと言えるだろう。また、一度敗戦してエルバ島へ渡って間もなく本土へ帰還し、短い期間ではあったものの皇帝の地位を再び手に入れることができたのは、彼の人望の暑さがあってこそのものだある。

政治力:5

 彼は一連のヨーロッパ各国への遠征という対外政策だけでなく、内政面でもフランスを大きく変えた人物であった。フランス銀行を設立し、教育制度の改革にも取り組んだ。そして、後世に残るものとして最も評価されているのはフランス民法典の編纂である。

知力:4

 劣勢を跳ね返す巧みな戦術や、皇帝就任後のトラファルガー沖の海戦でのイギリスに対しての敗北ですぐにイギリスを諦め大陸制覇に移る決断力、周辺国の王を親族で固めるといった行動など、ナポレオンは世界史でも屈指の知将であったと言える。しかし、モスクワ遠征では、ロシア側の思惑にはまり極寒のロシアでの焼き払い戦術に苦しむこととなった。

思想家:4

  ナポレオンは政治家、皇帝として名を残しているが、同時に、優秀な詩人、思想家でもあった。人間観察力に長けており、思想家としていくつもの名言を残している。「愚人は過去を、賢人は現在を、狂人は未来を語る。」というナポレオンの残した言葉がある。これは過去に縛られず歴史に新たなページを刻んだナポレオン=ボナパルトらしい言葉ではないだろうか。

出生から覇権への道

 1769年に地中海西部のコルシカ島の貧しい貴族の家に生まれる。当時はナポレオーネ・ディ・ブオナパルテというイタリア人風の名前であった。フランスの士官学校を卒業し砲兵将校となったが、1793年、コルシカ島の独立運動に参加し、指導者と衝突し家族でフランスに亡命した。亡命後は革命軍に加わり、その才能を認められた。

 1794年のテルミドール9日のクーデターの際には彼はロベスピエール派(中道左派勢力)とみなされ一時投獄され、地位を失ったものの、パリの王党派(右翼、国王を擁護する勢力)の反乱を鎮圧したことで総裁政府の信頼を得た。オーストリアを攻略するための1796年のイタリア遠征では、当時27歳であったナポレオンが司令官に抜擢され、サルデーニャ・オーストリア連合軍を破った。フランス軍実数25000に対しサルデーニャ・オーストリア連合軍70000と、数では明らかに劣っていたがサルデーニャ王が休戦を申し入れ、サヴォイアとニース地方のフランスへの割譲や、賠償金(戦争に敗北した側が勝利した側へ支払う金銭のこと)支払い、イタリア北部ピエモンテ地方へのフランス軍通過の容認等の条件を飲ませた。翌97年にオーストリアへと迫り、和約を結んだことで第1回対仏大同盟(イギリスをはじめとした各国が革命がすすむフランスの脅威に立ち向かおうと結束した同盟。当時、ヨーロッパは絶対王政であり、フランス革命により民主化の波が自国にも押し寄せることをヨーロッパ各国の貴族は恐れた)を崩壊させる事に成功した。

 1798年、イギリスのインド支配を阻む目的でナポレオンはエジプト遠征を率いた。ところが、エジプトの占領には成功したものの、フランス艦隊はアブキールでイギリスのネルソン艦隊に敗北し、エジプトに釘付けとなった。一方、1799年にはイギリスやロシア、オーストリアが第2回対仏大同盟が結ばれ、国内の政治状況も考慮し、ナポレオンは軍をエジプトに残してフランスに戻ることとなった。

 ナポレオンが国内の実質的な最高権力者に上り詰めたのもこの年のことである。国内の有力者(シェイエス、タレーラン、フーシェら)の協力の元、クーデターの計画が図られた。1799年11月9日、ついにナポレオンは軍を率いてクーデターを実行した。総裁政府を倒し、臨時統領政府を樹立したこの出来事は、その日が革命暦ブリュメール18日であったことから、ブリュメール18日のクーデターと呼ばれる。新憲法が作られ、国民投票で圧倒的多数の賛成をえてクーデターは承認された。4院制の議会、3人の統領(執政)からなる政府が組織され、ナポレオンは任期10年の第一統領(あくまでリーダーは3人いるという前提)となって独裁的な権力を掌握した。

ナポレオン帝国と大陸制覇

 1800年、ナポレオンはオーストリアとの戦争を再開しこれを破り、翌年、リュネヴィル(フランスの都市)でオーストリアとの講和を結んだ。1802年、イギリスとアミアンの和約を結んだ。この二つの講和によって、一時的ではあったがヨーロッパには戦争のない国際平和がもたらされた。革命以来フランス政府と関係が悪化していた教皇に対しても、ナポレオンは1801年に宗教協約(コンコルダート)を結び、フランスにカトリック復活を認めて和解した。

 1802年に終身統領となったナポレオンは、1804年の国民投票でナポレオン1世として皇帝となり、第一帝政という政治体制を開いた。また、この時の国民投票の結果は357万2339対2579という圧倒的多数の大差であった。この後、ナポレオンは再び積極的な対外政策を推し進め、大陸制覇へと歩みだした。

 イギリス首相ピットは、フランスの第一帝政に対抗して、1805年5月、オーストリア、ロシアを誘って第3回対仏大同盟を結成した。ナポレオンはイギリス侵攻計画を立てたが、同年10月、ジブラルタル海峡北西のトラファルガー沖の海戦でフランス・スペイン連合艦隊はネルソン率いるイギリス艦隊に破れた。この敗北でナポレオンは対イギリス上陸作戦を断念し、大陸制覇に方針を変えたのである。一方、陸上の戦いでは大きな勝利を収めた。同年12月、現在のチェコの地で行われたアウステルリッツの戦い(三帝会戦)では、ナポレオンはロシア(アレクサンドル1世)・オーストリア(神聖ローマ皇帝フランツ2世)両軍を撃破し、第3回対仏大同盟を崩壊させた。

 その後、イタリア、オランダを支配下においたナポレオンは、1806年西南ドイツ16の国をまとめ、ナポレオンを盟主とするライン同盟という連邦国家を結成した。これにより、800年以上続いた神聖ローマ帝国は完全消滅した。プロイセン(現在のドイツ北部とポーランド北部にあたる)、ロシアはナポレオンを脅威に感じ、フランスに宣戦した。しかしナポレオンの勢いは止まることなく、1807年、ティルジット条約で両軍に屈辱的な内容の講和を押し付けた。プロイセンは領土の半分を失い、賠償金と軍備の制限が課せられた。また、ポーランドにはワルシャワ大公国が建てられた。

 これによりナポレオンはヨーロッパの大部分を支配下におくことに成功。支配国の王も、ナポレオンの一族が務めた。弟ルイはオランダ王、兄ジョゼフはナポリ王となった。オーストリア、プロイセン、ロシアはフランスの同盟国とされ、協力を要請された。1809年ナポレオンは皇后ジョゼフィーヌと離婚し、翌10年オーストリア皇女のマリア=ルイーザを后とし、ヨーロッパの旧勢力との結びつきをはかった。

大陸封鎖とナショナリズムの台頭

 ナポレオンは、ヨーロッパ大陸の大部分の支配に成功したが、イギリスの対抗に苦戦を強いられていた。フランスに屈しないイギリスに対して、1806年にベルリン勅令(大陸封鎖令)を出し、大陸諸国にイギリスとの貿易および通信を全面的に禁止した。イギリスとその植民地の商品の取り引き、その地域からの船の入港も禁止した。これには、イギリスに対して経済的圧力を加えるだけでなく、フランス産業資本にヨーロッパ大陸市場を確保しようとする目的もあった。ところが、それは同時に、イギリスに穀物を輸出しイギリスから生活必需品と工業製品を輸入しているロシア、プロイセン、オーストリアにとっては、自国の経済が破壊されることを意味した。フランスの工業製品はイギリスに比べ高く、フランスは農業国であるため穀物の輸入を必要としなかったからである。大陸封鎖令は、当時のヨーロッパの経済システムを無視開いたものであったのだ。

 ナポレオンの制服は、自由・平等のフランス革命精神を非征服地の諸民族に広めた。自由の精神は、圧政に対する抵抗、フランスの支配からの独立など、ナポレオン支配下諸民族のナショナリズム、反ナポレオン運動を生み出した。

 プロイセンでは、ナポレオン支配下でシュタイン、ハンデンベルクらが指導して改革が行われた。農奴解放、都市自治制度の改革、中央行政機構改革などである。フランスの制度を学んだ軍制改革は、グナイゼナウやシャルンホルストが進めた。また、フンボルトは教育改革を行い、ベルリン大学が創設された。フィヒテは、「ドイツ国民に告ぐ」という講演で戦争の敗北で自信を喪失したドイツ人の愛国心を鼓舞した。

 ナポレオンの兄ジョゼフが王となったスペインでは、1808年5月に首都マドリードで市民の反乱がおこった。この反乱はフランス軍によって鎮圧されたが、反乱と抵抗はスペイン各地に広がり、1814年までゲリラ活動が起こりナポレオンを悩ませた。

ナポレオン帝国の崩壊

 天下を築きあげたナポレオンの第一帝政はロシアへの遠征を機に崩壊の一途をたどることとなる。ナポレオンの大陸封鎖令は穀物をイギリスに輸出していたロシアの農業経営に大きな打撃を与えるものであった。1812年、ロシアは大陸封鎖令に反してイギリスへの穀物輸出を再開した。これに制裁を加えるためナポレオンは60万の大軍を動員し、5月に大遠征を開始した。ロシア軍は戦いを避け、ゆっくりと後退し、ナポレオン軍をロシア本土の奥へと引きずりこんだ。9月14日、モスクワに入城したが、ロシアの焦土作戦によってモスクワは大火となり、10月にナポレオン軍は脱却を余儀なくされた。帰途、ナポレオン軍は宿泊所の不足に苦しめられ、ロシア正規軍、農民、ゲリラ軍の追撃を受けほぼ壊滅状態となり、遠征は大失敗に終わる。ロシア軍は、撤退するナポレオン軍のあとを追ってナポレオン帝国に侵入した。

 この敗北を機に、ヨーロッパ諸国はナポレオンとの同盟を離れ、1813年、イギリス・プロイセン・オーストリア・スウェーデンはロシアと結び、第4回対仏大同盟を結成した。同年10月に始まった諸国民戦争と呼ばれるライプツィヒの戦いでは、プロイセン・オーストリア・ロシア同盟軍がナポレオン軍に大勝し、1814年4月にパリに入城した。同盟軍はナポレオンに年金を渡して退位させ、エルバ島に隠退させた。ナポレオンの息子への譲位は認められず、ルイ16世の弟がパリに帰り、ルイ18世として即位し、ブルボン朝が復活し、革命以前の体制に戻った。

 ルイ18世の反動的な政治は国内に多くの敵を作り出した。ナポレオン戦争後の諸問題を解決するためにウィーンで国際会議が開催された。これが、ウィーン会議(1814年9月~15年6月)である。ところが、参加国の利害の対立から会議は混乱し、ルイ18世復位への国民の不満が、ナポレオンのエルバ島脱出を許した。ナポレオンは15年3月にフランス南部に上陸し、支持者をくわえながら北上した。ルイ18世はベルギーに逃亡し、パリへ戻ったナポレオンは皇帝への復位を宣言した。ヨーロッパ諸国は第5回対仏大同盟を結成し、ナポレオンとの最終決戦に挑むこととなる。1815年、ベルギーのワーテルローで、ナポレオンはイギリスとプロイセンとの戦いに破れ、完敗した。復活した皇帝ナポレオンの支配が短期間で終わったことから、この一時的なナポレオンの支配を「百日天下」という。投降したナポレオンは、大西洋の孤島であるセントヘレナ島に送られ、この地で1821年、その生涯を終えた。

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北朝鮮はインターネットつかえない国!?愛の不時着から見る生活感

北朝鮮とはどんな国なのか

インターネット唯一の「0%」の国

みなさん、「インターネット」はご存じですか?僕はご存じです。
今や生活には欠かせないインターネット。ニュースやショッピング、分からないことを検索し知識を得ることなどにも使えますし、世界に繋がっているため世界中の人とのコミュニケーションにもなり、自分の絵や歌などを投稿し自己表現の場としても利用できます。どこでも繋がれるどこでもドアのような存在。それがインターネットです。

しかし、そんな万能なインターネットも唯一繋がれない国がありました。そこはなんと、「北朝鮮」です。
先日発表された記事によると、
『北朝鮮では当局の遮断措置によりインターネットが全く普及していないことが国際的分析機関の調査で分かった。』とのことでした。

インターネットの使用率が「0%」なので、外部との情報共有は一切ないということになります。す、凄すぎる・・・。

イントラネットって?

しかし北朝鮮にもパソコンがないわけではありません。「光明網」という名のイントラネットを使用することができるようです。

ん?イントラネットってなんですか?
聞き慣れない単語が出てきたので、学が無いなりに調べてみました。

つまり簡単に言うと、会社に例えるなら
インターネットが外線で、イントラネットが内線ということですね。スッキリ!

なぜそんなに厳しいの?

なぜこんな厳しいのでしょうか。歴史から辿ると、約70年前に朝鮮半島は北と南に分かれ、北の「北朝鮮」は独裁政権を開始したところから始まります。独裁政権を開始したのはあの有名な「金日成(キムイルソン)」です。

ざっくり説明すると、北朝鮮は食糧難で貧しい国になってしまいましたが、国民には「地上の楽園」であると言い聞かせています。また、情報の漏洩を防ぐことから外部の情報を遮断していると考えられています。外の世界を知ると脱北者が増えて大変なことになってしまいますからね。

実際にはどうなの?

三度の飯よりインターネットが大好きな僕から言わせていただくと、明日からネットが使えませんなんて言われたら苦痛で仕方ないと思いますね。まちがいなく発狂します
北朝鮮人として生まれれば、インターネットという概念そのものが与えられないと思うのでそうはならなさそうですが。

この状況を知るために現場に出向いて見に行くのは危険すぎます。しかし、自宅でその生活感に近いものを体験できるドラマがありました。

Netflixで独占配信されている韓流ドラマ『愛の不時着』が、この北朝鮮の現状を把握するには良いと思われます。一部の北朝鮮に詳しい方や脱北者の話によると、6~7割は現状そのものだと話されているほどです。

北朝鮮の暮らしぶりを「愛の不時着」で

僕は愛の不時着が好きすぎて2周も見てしまいました。かなり感動するドラマなので毎晩泣いています。そのなかでも特に興味をそそられたのは「北朝鮮の暮らしぶり」です。

あらすじとして、韓国の財閥令嬢(ユン・セリ)が不慮のパラグライダーの事故により、北朝鮮に不時着してしまいます。そこで助けられた北朝鮮の軍人(リ・ジョンヒョク)と恋に落ちるというストーリーです。現代版ロミオとジュリエットのような話ですね。

韓国の生活とは違って北朝鮮の生活感はまるで違います。当然のように起こる停電の連発。人の家を見回り捜査する宿泊検査。冷蔵庫がないためにキムチ倉が庭に設置されていることや、ホテルには盗聴器が仕掛けられていることが一般的なのです。汽車が停電で止まれば10時間以上も遅延します。信じられないことの連続な生活に、普段セレブな生活をしていたユン・セリは過酷な窮地に立たされてしまいます。もちろんインターネットもないため故郷への連絡手段ありません。

過去へタイムスリップしたのではないかと思うほどの遅れた文明の世界で、どうやって故郷の韓国へ帰るのか。インターネット使用率0%も納得してしまうほどのリアルさがあります。

この「愛の不時着」は北朝鮮出身者が脚本作成に参加しており、また多くの脱北者への取材の上で作られたドラマなので生活感に関してはかなり近いものと言われています。
二人の恋物語がメインのドラマですが、裏テーマとして「南北統一問題」が挙げられており、非常に感慨深い作品となっています。Netflix の人気TOP10(日本)にも常に1位を獲得する大ヒット作品「愛の不時着」。是非この夏に観てみてはいかがでしょうか。

『愛の不時着』予告編 – Netflix

僕は3周目に突入しようと思います。それでは!

『愛の不時着』を観る

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課外活動ガチ勢の私は中学3年間の不登校でどう変わったのか

1.中学受験の失敗

元々私は中学4年生の頃から塾に通っていたいわゆる「中学受験ガチ勢」でした。成績も悪くなく、志望校は都内私立の男子校ですべて固めていたほど、受験に対しての意識は高い方でした。しかし、友人と遊べないといういかにも小学生らしい理由から、塾をやめてしまったのです。しかも、中学受験の勉強によって小学校での授業内容を先取りしていた私にとって、当時の授業は退屈であったため、ちょっと早めの反抗期も既に来ていました。
しかし、そんな早めの反抗期に入った私にとって「受験で負ける」というのがだんだん嫌になってきて、再び中学受験を目指すようになります。それが確か小学5年の後半か小学6年の前半。
塾に入って初めての面談で私は志望校として、小学4年の頃と同じところを挙げていましたが、学力とのギャップが1年のブランクによって生まれてしまい、ショックを受けました。
そのことによって小学6年の半ば頃~後半は不登校になり、受験勉強にも打ち込めず、結果的に滑り止めの滑り止めしか受かることができませんでした。
中学受験といえば、2月1日からの3~5日が受験の本番ですが、3日の時点であまりのショックでそれ以降の私見をすべて欠席していたほど、当時はショックでした。

2.中学入学直後

そうして私は都内の私立中高一貫男子校に入学しました。滑り止めの滑り止めであった頃からも、クラスは一番上からスタート。交友関係も試験結果もよく、順風満帆な中学生活でした。
しかし、そんな生活が徐々に変わって行ってしました。
その理由は「中一ギャップ」です。
テニスを幼少のころから続けており、当然のように入ったテニス部が私にはあまりマッチしなかったのです。そのせいで授業に終わってすぐ部活、そして死んだように帰宅直後に寝てしまう。そして朝起きたら終わっていない宿題のプリント(いわゆる自称神学校だったため、毎日のプリントや宿題は常にあった)が鞄の中に。
私は性格的に見栄っ張りで、宿題をせずに学校に行くということができず、不登校の癖ができていきます。
ただ、そんな不登校癖があってもテストでの点数は相当よく、「学校行かなくても大丈夫だ」という謎の余裕が生まれ、中一の半ばごろから消極的不登校から積極的な不登校へと変わっていきました。

3.勉強ができるというアイデンティティの喪失

しかし、中学の半ば~後半で転機が訪れます。テストの点数が低下していったのです。当時私は普段学校を休みながらテストだけを受けるような余裕を見せていたのですが、得意な科目以外が壊滅的な点数だったのです。
このことがあまりにショックで、表向きでは「得意科目でこんなに点数取れているから学校なんて意味がない!」と言いつつ、勉強ができるというアイデンティティを徐々に失っていったのです。
その後はそのアイデンティティを失わないため、テスト自体を受けないという選択肢・消極的な不登校へと変わっていったのです。

4.オンラインゲームでのコミュニティ形成

そんな風に、アイデンティティを失いつつあった私がのめり込んだのはオンラインゲームでした。当時私はランキングに入るような実力を持っており、勉強ができるというアイデンティティからゲームがうまいというアイデンティティを持ちつつありました。
そんな風に毎日10時間以上ゲームに費やすような生活をしていると、ゲームの中でのコミュニティにのめり込んでいくようになっていきます。
ゲームから繋がったいわゆるネッ友とTwitterやLINEで繋がり、元々やっていたゲーム以外にも色々手を出してみたり、気付くとLINEのグループ通話時間が14時間を超えていたりなんてことが多々ある日々を過ごすようになったのです。

5.私のセレンディピティ

そんなオンラインゲームでのコミュニティでは、ある意味社会の縮図と取れるような様々な体験をすることができ、社会性を養うという点ではむしろ学校よりもリアルな姿を学べたのではないかと思っています。

それを通じて私は社会への興味を深めていきました。例えば、当時1つ年上の先輩で中卒で働いている人だったり、学費が払えず大学を中退してしまった先輩、就職先がなかなか見つからずアルバイトで食いつないでいた社会人の方など。私立の中高一貫校で周りに裕福ないわゆるぼんぼんといわれるような人たちに囲まれていた自分にとってはとても新鮮な体験であり、それが社会へ興味を持つ原体験だったのではないかと思います。

度々この頃を自分の中で思い出しながら考えるのですが、このような出会いが、今の私の考えのもとになっているんだなぁと、とても感じます。

この出会い・セレンディピティがなければ、今の車 世栄はいなかったといっても過言ではないでしょう。

6.社会への関心

私はそんなセレンディピティをきっかけに、社会への関心を深め、特に政治について勉強を始めました。当時はネットの情報に大きく影響され、いわゆる右の立ち位置で、和田政宗参院議員や櫻井よしこ氏、西岡力氏などにお会いさせていただき、より考えを強めていきました。
講演会等にも積極的に参加していった私ですが、話の中で学校というワードが出る度に心が痛んでいました。
「学校はどう?」
といった質問ですら毎回深く心にとげが刺さったような感覚を覚えていました。
そこで私は「絶対に学校に行こう」と決心し、高校から学校に通うようになります。

7.高校生活

高校は中高一貫の学校だったため、そのまま進学しました。その学校は高校からの入学者がいない完全中高一貫制の学校だったため、周りはもう既に3年間付き合ってきた仲の良い友達。そんなコミュニティの中に突然名前も顔も知らない人が入ってきたのです。自分にとってもそうですが、周りからも「だれ?」という何も知らない状態から始まった学校生活でした。
ただ担任の先生が相当うまく馴染めるようにサポートしてくださったのもあり、なんとか馴染むことができました(諸説あり?笑)。

そして私を変える一大イベントが学校に訪れたのです。それがリディラバによる2泊3日のスタディーツアーです!

リディラバのスタディーツアーについてはこちら

そこで私は社会問題の何たるかをゼロから学び、それまで政治のイデオロギーの部分に興味を持っていましたが、より実践的な部分へと興味を移していきました。

8.課外活動ガチ勢へ

そこからはスタディーツアーで学んだ知識を活かし、学内でプロジェクトを立ち上げたり、課外で学生団体に所属し、高校1年生ながら高校1年生に出前授業をしに行くといった体験をさせて頂いていました。
自分の人生を振り返ると、完璧に言語化できなかったので深見が感じられませんが激動の学生生活だったと思います。
このような体験全てが今の私、車 世栄を作ってきたのです。
そう考えると、不登校も、ゲーム漬けの日々も、欠かせない貴重な体験だったんだなと、過去の自分を否定するのではなくむしろ肯定的に捉えています。

そんな私、車 世栄は現在も日々成長中であり、は元居た学校を飛び出しネットの高校として有名なN高へ転学し、都議会議員事務所でスタッフとして活動を行ったり、法人の立ち上げなどを画策しています。

なぜN高に転学し、法人を立ち上げようと思ったのかなどはまた別の機会に書くことができればと思います。

9.さいごに

以前私は国民民主党本部からスタジオでニコニコ生放送に出演をしたことがあり、香川県のゲーム規制条例案に対して玉木代表・伊藤議員にこんなことを言ったことがあります。
「ゲームやオンラインのコミュニティによって救われている人もいるし、なにより根本的な原因はゲームではなく実社会の方にあるのではないか」

不登校やオンラインゲームへの依存で苦しむ学生や親の方は今も本当に多くいらっしゃると思いますが、磨けば輝き、光るようなダイアモンドの一面がななたにも必ずあると思います。

今の自分を否定的に捉えてしまうのではなく、受け入れてあげて、ゆっくりと前に進んでいきましょう。

ぜひいつか社会のどこかで皆さんとお会いできることを楽しみにしております。

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