【ママ友いじめ】無視・陰口・ウワサ話。ママ間で起こるいじめ

無視・陰口・ウワサ話。

疲弊する”ママ友”

産後、多くのママコミュニティで頭を悩ませている問題があります。

それは、ママ友間のコミュニケーションについてです。

誰もが、許されない行為だと思っているはずなのに、なかなかこの世界から消えてなくならない”いじめ”ですが、それはママ友コミュニティでも例外ではありません。

そんなママ友いじめについてスポットを当てていきます。

ママ階級、何で決まる?

NHK番組”あさイチ”ではママの階級はなにで決まるのかというアンケートを行いました。

基本的に多くの部分で「高収入」が階級を上げる要素になるようです。

階級に差ができるということは、”ボスママ”が存在するということです。

単にボスママといっても、自らボスになったわけではなく、周りからボスママ扱いされることもあるようです。

「あの人ボスママだから逆らわない方がいい。後で怖いよ」というように、政治的な駆け引きが行われるようです。

中見出し:ママ友いじめ

いじめは子供だけでなく、大人も起こしてしまいます。

グループ内の会話が無視されてしまったり、大切なことを教えてもらえないなど、無視型が多いようです。

ママ友からのいじめの原因は何なのでしょうか?

それは、家庭内のストレスや嫉妬、また子供間の関係によって引き起こされることもあるようです。

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結局どうすれば良い?

ママにも様々な種類があり、告げ口ママ、ボスママ、クレクレママなど種類があるようです。

告げ口ママとは、あることないこと周りに吹き込むママ友のことです。

ボスママとは、序列が生まれることで支配構造を生み出すママのボスのことです。

クレクレママとは、「あれ頂戴(クレ)、これ頂戴(クレ)」とドンドン要求してくるタイプのママ友です。

そういったタイプのママ友としっかりと対処していくことが大切です。

告げ口ママの対処法

告げ口をしたり、他人の噂話を伝えてくる人間の情報は鵜呑みにしないようにしましょう。

告げ口ママは情報の真偽はどうでもよく、単に話好きな人がうわさを流す点が薬価隠者ところです。

情報が真実であるかを、元の発言者に確認するなどして、裏取りをしましょう。

ボスママの対処法

ボスママの厄介なところは、ボスママに対してご機嫌取りをしなければならない点にあります。

機嫌を損ねてしまうと、絶妙な根回しによって村八分にされてしまいます。

対処法としては、ボスママがいるグループには参加しないことが大切です。

入ったグループで後でボスママがいることが分かった場合は、違うグループに徐々に移行することも考えてください。

ボスママのコミュニティに近寄らないことが対処法になります。

まとめ

ママ友のトラブルは女性だけの、閉鎖的な空間で縄ばり争いが行われることで起こります。

夫婦共働きが進み、夫が育児に均等に関わるようになれば、雰囲気が変わっていくのかもしれません。

ママ友には非常に助けになる方もいれば、距離を置いたほうが良い方もいます。

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【女性対決!】山形県知事選挙を解説

山形県知事選挙 女の戦い

候補者紹介

大内 理加(オオウチ リカ)

オフィシャルサイトより引用

プロフィール

1963年 山形市生まれ

1976年 山形市立出羽小学校 卒業

1979年 山形市立第七中学校 卒業

1982年 山形県立山形西高等学校 卒業(陸上部キャプテン)

1986年 (株)山形テレビ報道制作局制作部勤務(番組ディレクターを務める) 同志社大学文学部 卒業

2007年 山形県議会議員初当選(以降4期連続当選、過去2回はトップ当選)

2011年 自民党県連幹事長代理 自民党県連女性局長

2018年 自民党県連総務会長

大内りかオフィシャルサイト

主張する政策

①他県より10年は遅れている 交通インフラの整備

②役割分担による 質の高い地域医療体制の構築

③水準が低下している 「教育県山形」の復活

④災害の被害を最小限にする 県土強靭化

吉村 美栄子(ヨシムラ ミエコ)

オフィシャルサイトより引用

プロフィール

1951年 山形県西村山郡大江町出身

1970年 県立山形西高等学校卒業

1974年 お茶の水女子大学卒業

1974年 リクルート勤務(昭和52年まで)

1981年 子育てしながら行政書士の資格を取得

1998年 山形市総合学習センター勤務

2000年 自宅にて行政書士事務所開業

2001年 山形県知事選初当選現在3期目

吉村みえこオフィシャルサイト

主張する政策

①県民総活躍

②産業イノベーション

③若者の希望実現

④健康安心社会

⑤県土強靭化

自民党vs野党連合の戦いへ

任期満了に伴う知事選は来年1月7日の告示(24日投開票)まで1カ月に迫った。立候補を表明したのは現職で4選を目指す吉村美栄子氏(69)=山形市=と、新人で元県議の大内理加氏(57)=自民推薦、同=の2人。12年ぶりの選挙戦で、県政史上初の女性同士による一騎打ちとなる可能性が高い。両陣営とも組織体制をほぼ整え、支持獲得に向けたせめぎ合いを繰り広げている。  吉村氏は10月25日の記者会見で4選出馬を正式表明した。県民党を掲げ、政党推薦は求めない方針だが、立憲民主、国民民主、社民の各党県連が自主的支援を決定。連合山形や県農協政治連盟などが推薦する。県内全域に張り巡らせた約90の後援組織に加え、今月2日に若手社会人による新たな組織も発足させ、幅広い世代への浸透を図る。(引用:山形新聞

どちらも無所属で臨む様子ですが、大内候補には自民党、吉村候補には立憲・国民・社民などが支援を決めています。

公明党は大内さんの支援を検討しており、実質的な与党vs野党の戦いになりそうです。

【三国時代の英雄】曹操とは何者なのか?

三国志解説シリーズ:曹操

曹操孟徳という男

月岡芳年 「南屏山昇月 曹操」:パブリックドメインQより

曹操のプロフィール

・名前

曹操孟徳(ソウソウモウトク)

生きた年代

155〜220年

性別

出生地

豫州沛国譙県(ヨシュウハイコクショウケン。現在の安徽省亳州市譙城区アンキショウショウジョウク)

死没地

豫州河南郡洛陽(ヨシュウカナングンラクヨウ。現在の河南省洛陽市カナンショウラクヨウシ)

所属勢力

後漢(ゴカン)魏(ギ)

地位、称号、階級

魏王(ギオウ)

丞相(ジョウショウ)

諡(オクリナ。死後に中国の高い位の者に与えられる名前。):武王(ブオウ)

廟号(ビョウゴウ。「廟」とは死者が祀られる施設の事。「廟号」は祀られる際に使われる名前の事。):太祖(タイソ。王朝の始祖に使われる廟号。死後はこの名前が用いられる。)

親族

曹丕ソウヒ(次男。最終的な後継者。)

曹昂ソウコウ(長男。若くして死ぬ。)

曹植ソウショク(五男。詩で名を残す。)

曹仁ソウジン(従兄弟)

夏侯惇カコウトン(従兄弟)

夏侯淵カコウエン(従兄弟)

同時代に活躍した人物

マルクス・アウレリウス・アントニヌス

カラカラ帝  

中国の大部分を統一した「乱世の奸雄」

    曹操は、三国時代の1各を担う最大勢力魏国を築き上げた時代の覇者。

黄巾の乱(コウキンノラン。後漢末期184年中国各地で起きた大反乱)で頭角を表した。強敵だった諸侯(天下統一を目指した群雄のこと)呂布(リョフ)袁術(エンジュツ)を滅ぼし、中原(当時の中国の中心地)を統一した。

 その際に後漢(ゴカン。25~220年)の皇帝である献帝(後漢の最後の皇帝。後漢王朝は衰退の一途であったため、権力は無いに等しかった。)を抱き込み、権威を味方にする。河北(中国北部)を支配していた最大のライバル袁紹(エンショウ)を圧倒的な形勢差の中逆転し、河北の平定にも成功する。

 更に中華統一のため南方に攻め込むが、赤壁の戦いにおいて後に蜀を建国する劉備(リュウビ)と江南(中国南方の東部)を支配していた孫権(ソンケン)の連合軍に大敗し、天下三分となる。

 その後も幾度か南方に攻め込むが、その度に劉備孫権に阻まれた。曹操を表す「治世の能臣、乱世の奸雄カンユウ」とは、安定した治世の元では有能な臣下となるが、乱世では悪の君主となるということ。曹操は乱世に生まれたため、後漢王朝を滅亡に追いやった悪の君主となった。

【能力値】

指導力5

 曹操(ソウソウ)は稀代の兵法家(兵士を上手く率いる術を知っている人)でもあり、史上に残る政治家でもあった。いづれの分野でも時代を牽引し、群雄割拠の時代を三國鼎立(サンゴクテイリツ)へ意図せずとも安定させた第一人者である。官渡(カント)の戦いで1万に満たない兵力で10万の袁紹兵を破るという軍事的才覚と同時に、数々の諸侯で分裂しバラバラになっていた中原と華北を纏め上げる政治的手腕を見せている。

人望4

曹操羅貫中(ラカンチュウ)『三国志演義』では悪役で冷酷無比な人間として描かれている。もちろん史実でも陶謙(トウケン)の部下に父が殺された際に陶謙領地の住民を虐殺するなどの直情的な面を持つが、カリスマ性に優れ多くの有能な武将が曹操のためと付き従った。能力を持った人物はどんな者でも重用し、徹底的に実力主義を貫いた所も曹操への配下の信頼に繋がったと言える。華北を統一し、優れた統治を行った曹操の存在は極めてに大きく、敵方の諸侯も一目置いていた。

政治力5

 軍事的才能が際立っている曹操だが、政治力も時代屈指のものだった。曹操の領地では諸侯など地位のある者の反乱はあったものの、農民の反乱はほとんど無かった。曹操は、戦争がない時は兵士を耕筰させ、流民や農民から公募を募って農地を与えるという屯田制を実施した。そして収穫の5~6割を徴収したのである。これによっての食糧事情は安定し、持久戦に耐えられるようになった。この屯田制は戦時にかなり有利に働いたため、もこれを真似せざる得なかった。

  また、曹操は民が苦しんでいる事を憂いており、この思いを詩に残している。黄巾の乱から群雄割拠の時代までで中国の人口は激減し、飢餓や貧困も蔓延っていたため、曹操はそうした世の中を変えたいという思いがあったのかもしれない。『三国志演義』(三国時代の書物を小説化したのも)にあるような悪役曹操のイメージとは違った一面である。

知力5

   曹操は軍事的采配や政治的決定を合理的に下し、スピード感を持って国を大きくしていった。漢王朝の時代の思想の軸となっていた儒教の考えを強く批判し、合理主義・実力主義を政治の場面で取り入れ、慣習に執着せずに判断できる人物だった。

    暇さえあれば書物を読み漁り、かなりの知識を蓄えていた。名門の生まれであるため書物を読むのは当たり前だったが、かなりの熱量を持って本に向き合い、『孫子の兵法』(春秋時代の紀元前5世紀頃に記された兵法の指南書)の注釈を自分で書き編纂する程だった。今でも曹操が残した『孫子の兵法』は残っており、広く流通されている『孫子の兵法』曹操が編纂したものである。これはかのナポレオンも愛読していたという説がある程で、今でもビジネスの場面で用いられる事がある。2000年にも渡って曹操の知識や経験が残っているという事実は、彼の知略の何よりの証拠だろう。

常識破り5

  曹操は当時蔓延っていた儒教の概念に捉われない政治をし、徹底的な実力主義を敷いた。家柄が悪かとうと犯罪者であろうと有能な者であれば登用し、儒教が重んじる親孝行さや正直さ、無欲さとは関係なく登用した。それは曹操が発令した賢求令にも現れており、「人格破綻者でも犯罪者でもなんでも良いから、才能があれば俺の元に来い。」というお触れを出した。しかし、これは前述の儒教とは異なる考えであり、当時の常識とは異なった考えであり、それによる摩擦も起きた。

【見出し1:若い頃は不良だった】

pixabayより

 曹操は前漢(紀元前206年~8年)初期の丞相(ジョウショウ。行政のトップ。今で言う総理大臣。)だった曹参(ソウシン)の家系に生まれた。若い頃から知識に富み頭も良かったが、素行が悪く周りからの評判は良くなかった。後の宿敵袁紹と結婚式から花嫁を攫うなどの悪事を働いていた不良だった。しかしそんな中、その当時の軍事の最高位であった大尉(今で言う防衛大臣)の橋玄(キョウゲン)曹操の才能を見抜いていた。

ある時、曹操橋玄(キョウゲン)が紹介した有名な人物鑑定士の許ショウに「治世の能臣、乱世の奸雄」と評されている。これは、前述の通り「安定した世の中であれば良い家臣となるが、乱世の場合は悪の君主となる」ということを意味していた。

【見出し2:黄巾の乱で頭角を表す】

 曹操は初め後漢の官僚として仕事に就き、各地の官位を歴任した。出世して洛陽(当時の中国の首都)北部尉に就任し、洛陽北部の賊の討伐と治安の安定を任された。そこで曹操は当時最大の権力を持っていた宦官(多大な権力を握っていた皇帝の世話係)の親族すらも公平に処罰し、地位に関係なく法に照らして厳しく取り締まった。この態度によって権力を持つ者は曹操を嫌ったが、彼は何より法を重んじ処罰したため、やがて法を犯す者はなくなったという。

 184年張角率いる黄巾軍の反乱が起こり、曹操はその討伐を命じられる。曹操はこの戦いで軍勢の指揮官としてのデビューを果たし、皇甫嵩(コウホスウ)朱儁(シュシュン。皇甫嵩共に後漢の将軍)と共に潁川郡(エイセイグン。現在の河南省中部。)で暴れている黄巾軍の討伐に成功した。その後、功績によって太守(群の行政を担う長官。今でいう市長や知事。)に任命されるが、病気を言い訳にしてそれを辞退し隠遁生活を送った。曹操はこの間も読書や武芸の鍛錬を怠らず、自己研鑽を絶やさなかった。

 黄巾の乱は一旦収束したものの後漢は弱体化し、黄巾に続いた各地の反乱を収める事が困難になっていた。そこで霊帝(レイテイ。後漢の皇帝)は黄巾討伐で特に功績が認められた者を西園八校尉とし、皇帝直属の軍隊とした。曹操西園八校尉の1人に選ばれ、名声は更に上がった。

【見出し3:反董卓連合軍(ハントウタクレンゴウグン)に参加】

pixabayより

 当時絶大な権力を持った宦官の集団である十常侍(ジュウジョウジ)の専横が極まり、十常侍に対する官民からの批判が集まっていた。そのため、将軍らを纏める最上位の役職に就いていた大将軍何進(カシン)は宦官の排斥を画策し、曹操袁紹董卓(トウタク)などの将軍達を招集した。しかし、何進は計画実行前に十常侍の策謀によって殺されたため、曹操袁紹(エンショウ)が宮中に乗り込んで宦官の排斥を行った。その混乱の中、少帝(霊帝の次の皇帝)は行方不明となり、最終的に皇帝を保護したのは董卓(トウタク)だった。

 董卓は皇帝の権威を借りて専横を振るうようになり、相国(丞相よりも上の行政のトップ)に就任する。董卓は暴虐の限りをつくしたので、曹操袁紹董卓を見限って故郷に帰っていった。やがて董卓への批判が更に強まると反董卓連合軍が結成され、曹操もそれに参加する。これには各地の諸侯が参加し、後の呉の礎を作った孫堅(ソンケン)公孫瓚(コウソンサン。劉備の学友)などが連なっていた。

 反董卓連合軍は兵力では董卓を上回っていた。当初孫堅董卓の猛将華雄(カユウ)の首を取るなどの前進があったが、苦戦を強いられた。なぜなら諸侯達は自分の勢力の消耗を避け、戦うのを嫌がったからである。董卓打倒のために立ち上がった連合軍だが一枚岩ではなかったのだ。こうして諸侯達の会議が難航する中、董卓は都の洛陽から長安に移り、防衛の体制を整えてしまった。

 曹操はこうした連合軍の状況に業を煮やし、ほぼ自軍だけで出陣。董卓軍の武将徐栄(ジョエイ)と戦い、奮闘虚しく破れ、自身も肩に矢傷を負う。曹操はそれでも連合軍の武将を熱く説得に掛かるが、やはり自軍の消耗を嫌う諸侯は出陣を嫌がった。曹操は間も無く連合軍を見限り、陣営を離脱した。

【見出し4:躍進と父の死】

 その後、諸侯達は自分の領地を広げようと争い群雄割拠の時代に入る。当然曹操も名乗りを上げ、実力を重んじることを聞きつけ、配下には優秀な将軍や軍師が集まった。

 ある時、100万人の青州(セイシュウ)の黄巾賊が兗州(エンシュウ)を攻めてきた。兗州の領主だった劉岱(リュウタイ)は殺され、劉岱の部下は曹操を兗州の領主として引き入れる。曹操は黄巾賊を打ち破り、兵士30万人とそれ以外の男女100万人を受け入れた。この時引き入れた兵の中から優秀な者を選んで青州兵として組織した。この主力が曹操の躍進の原動力となる。

 青州兵を得て躍進を続けていた曹操であったが、父曹嵩(ソウスウ)が徐州の領主陶謙の部下に殺されたという報を受ける。これに激怒した曹操陶謙の領地を攻め、陶謙軍を攻めるとどころか住民を虐殺するという暴挙に出る。曹操は大変有能だったが、冷酷無比な面も持ち合わせていたのだった。この暴挙によって当時陶謙と関わりのあった劉備(後に三国志の1回を担う蜀を建国する諸侯)と対立し、暫くは陶謙の領地を併合できなかった。

当時の地図:ウィキペディアコモンズより

劉備の文字のある部分が陶謙の領土だった。曹操に攻められた後、陶謙はまもなく死に劉備がその後を領地を継いだ。

【見出し5:最大のライバル袁紹との対決】

pixabayより

 曹操呂布袁術(エンジュツ)といった敵を次々に打ち破り、やがて最大の敵で河北(中国の北方)を統一していた袁紹と相対するようになる。諸侯では曹操派となるか袁紹派となるかで分かれ、概ね袁紹の方が優勢な見方だった。

 予想に反して曹操は、劉備とはぐれ一時的に曹操の元に居た関羽(カンウ。劉備の配下。蜀の名将)の力を借りるなどして、袁紹との初戦に次々勝利を収める。圧倒的な兵力差があった曹操だったが、人材の使い方が上手く、兵の用い方でも上回っていた。

 いよいよ曹操は官渡(カント。中国2大河川の黄河の流れを汲んだ川。またそのほとりの地名)で雌雄を決することになる。初戦で勝利を収めていたとはいえ袁紹の兵力は10万なのに対し、曹操は1万にも満たなかった。官渡での戦いの序章は膠着状態だった。曹操は官渡 城に籠城し、袁紹はやぐらと土の山を築いて曹操の陣営に弓を射た。曹操はたまらずこれに対抗して発石車を作って袁紹側に石を投げた。陣営を出る事のない攻防が続き、両者攻めあぐねる状態が続いた。曹操側は依然として厳しい状況にあり、兵力差に加え兵糧は尽きかけ、戦いが長引くのは曹操にとってかなり不利だった。

 そんな中、袁紹の待遇に不満を持った許攸という曹操の幼馴染が投降してきた。言うには袁紹軍の兵糧は鳥巣(ウソウ)に集結しており、ここを叩けば袁紹は3日も経たずに敗走するのだという。それを信じた曹操は鳥巣を襲撃。袁紹は兵糧を失って慌てて敗走することになる。領地へと逃げ帰った袁紹は病死し、やがて曹操は河北一帯を統一することとなった。

【見出し6:赤壁の戦いで大敗北する】

pixabayより

 最大の宿敵だった袁紹を倒し、まさに破竹の勢いとなった曹操の目はついに南に向けられることになる。中国の南方中部のケイ州を治めていてた劉表(リュウヒョウ)は死亡し、その息子劉琮(リュウソウ)は幼なかったこともあり、曹操に領土を明け渡してしまう。

 曹操は南方東側の江南を治めていた孫権にも降伏を申し出るが、孫権曹操との徹底抗戦を決め、劉備と同盟を結び、周瑜(シュウユ)を筆頭に赤壁の戦いへと挑む。かくして曹操周瑜との戦いが始まったのだが、周瑜に上手く立ち回られ孫権軍得意の水上の戦いに持ち込まれてしまう。曹操軍は騎馬での戦いが得意で、常に陸上で敵を打ち破ってきた一方、江南は長江があり、水軍での戦いが多いため周瑜率いる水軍は良く訓練されていた。こうした得意分野での戦いができなくなったことに加え、曹操軍では風土病が蔓延して多くの兵士が倒れるという最悪の事態になっていた。

 曹操は10数万の兵士を有し、周瑜の兵は3万、劉備の手勢はわずか2千で、優勢には変わりわなかったものの、こうした状況的不利から戦況は膠着する。この膠着を破ったのは敵方の周瑜だった。周瑜黄蓋(コウガイ)と言う配下の武将を投降させ、曹操の船に火を付けることを画策した。さらにその火が上手く回るように、南東の風が来るじっと待っていたのだった。黄蓋の偽の投降に曹操は騙されてしまい、あっという間に曹操軍の船に火が回り、曹操は敗走した。地の利を奪われる、周瑜の計略を見抜けない等の小さなミスの積み重ねがこの大敗北に繋がってしまったのだった。

【見出し7:中華統一の夢は叶わず没する】

清朝時代(1616~1912)の肖像画:ウィキペディアコモンズより

 曹操はその後も幾度か孫権あるいは劉備を攻めるが、なかなか領地を奪うには至らなかった。しかし、国力的な優位や後漢の皇帝を擁していると言う権威的優位は変わらず、攻め込まれることはあっても領地を大きく失うことはなかった。
 曹操は212年に魏公(ギコウ。「公」は中国で使われた「王」に継ぐ爵位。「魏」の名前は後漢の献帝から与えられた。)となり、216年には魏王(ギオウ。「王」は最高の爵位。)まで登り詰め、220年洛陽で崩御した。享年66歳であった。稀代の兵法家、政治家であるだけでなく文化人としても歴史に名を残しており、建安文学(ケンアンブンガク。五言詩を中心とする詩文学)の重要格の一人であり、『孫子の兵法』の編纂者でもあった。非常に多彩な人物だったと言える。

【5分でわかる】男性の育児休業取得の現実は?

男性の育児休業取得は一般的?

男性の育児休業取得の現状

男性の育児休業はなかなか進んでいません。

平成25年度 育児休業制度等に関する実態把握のための調査研究事業_報告書によると、「男性の育児休業取得率は、低調に推移しており目立った増加は見られない。」としています。

画像からわかるように、男性の育児休業取得は全く一般的になっていないようです。

男性は育休取れるの?

育児休業(育休)は性別を問わず取得できます。

育児・介護休業法には「子が1歳に達するまでの間(子が1歳を超えても休業が必要と認められる一定の場合には、子が最長2歳に達するまで)、育児休業をすることができる」と定められています。

男性が育休を取得できた理由として最も多いのが「休暇を得やすい職場だったから」と挙げられています。

休業の取得率はその会社の雰囲気に左右される部分が大きいのです。

男が育児休業を取得するメリット

男性が育休を取得することで、多くのメリットがあります。

・ 子どもと過ごす時間が増え、よりコミュニケーションを取ることが出来ます。

・一緒にいる時間が増え、日中の子どもの様子を見られるので、普段は気付かない発見があるかもしれません。

・ 配偶者の復職時の最も大変な時期に、父母が協力して子育てできるようになります。

・ 育休前後で業務の引き継ぎが発生をしますので、自身の担当業務の効率化を図る機会になります。

まとめ

現状として育休はなかなか取得できていない世の中です。

だからこそ、育休を取得し「育休をとるのは当たり前なんだ」とみんなが思う必要があります。

育休は認められた権利ですので、遠慮せずしっかりとりましょう!

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【アレクサンドロス大王】東方遠征で帝国を築いた戦術家

今回は、古代マケドニアの英雄アレクサンドロス大王の解説です。20歳という若さで国王の地位に就き東方大遠征を進めました。わずか32年の人生でしたが、2000年経った今でも語り注がれるほど大きな功績を残しました。

キーワード解説:アレクサンドロス大王

アレクサンドロス大王のプロフィール

生没年 紀元前356年〜紀元前323年

主な親族 フィリッポス2世(父)

所属国 マケドニア王国

出身地 ペラ(現在のギリシア)

能力値

指導力:5

アレクサンドロス
は、20歳という若さで国王の地位に就き東方大遠征を進めました。
当時最強であったアケメネス朝ペルシアを破り帝国を大きなものへと成長させたのは、当然、彼の指導力があってこそです。

知力:4

彼はグラニコス川の戦いイッソスの戦いガウガメラの戦いをそれぞれ指揮し、いずれもマケドニア軍を勝利に導きました。
相手の戦略ミスに助けられたこともあり運も味方したものの、アレクサンドロスの知力がなければマケドニアはここまで大きく発展しなかったことでしょう。
特にイッソスの戦いの際には、敵が大軍を率いていると知り最後まで迷いながらも大軍が展開しづらい隘路(狭い通路が続く場所)での戦いを選択したのは彼の知略の高さを垣間見る判断です。

政治力:5

アケメネス朝滅亡後、その後継者という形で振る舞ったアレクサンドロスでしたが、古代ペルシアらしい専制政治を展開します。
ペルシアの伝統に倣って、神のように振る舞ったのです。
他にも各地にアレクサンドリアという都市を作ったり、古代ヨーロッパとアジアの融合政策を展開したりなど、巨大となった帝国を維持しました。

人望:4

アレクサンドロス出生時、マケドニア国王フィリッポス2世の跡継ぎが誕生した、と町中が歓喜に包まれました。
幼い頃から高等教育を受けあらゆる分野に対する教養と博識は多くの人々にその存在の偉大さを認めさせます。
有名なグラニコス川の戦いでの一騎打ちのエピソードをはじめ自ら現場にたって敵と戦うこの勇猛果敢な姿は、部下たちの求心力を高めたことでしょう。
一方で、宴会の席では、酔っ払って部下を処刑したという話もあります。

恋愛:5

彼の正式な結婚は29歳の時です。バクトリアの豪族の娘と結婚しました。
アレクサンドロスは彼女に恋をしたと言われている一方で、政略的なものだったとの見解もあり詳細は定かではありません。
その後、スサにてペルシア豪族との集団婚礼式を行い、自身もアケメネス朝の王族の女性と結婚しています。
他にも、捕虜を愛人として迎え入れ丁重に扱ったという記述があります。
一夫多妻制であったため不思議なことは何もありませんが、さすがは大帝国のトップといったところではないでしょうか。

アレクサンドロス大王の誕生

紀元前356年7月26日の未明、オリュンピアス王妃が男児を出産、アレクサンドロス3世と名付けられました。

誕生に伴う祝賀の行事が、ギリシアの北方のマケドニアの首都でありアレクサンドロス誕生の地でもあるペラで盛大に行われます。

王(父、フィリッポス2世)により大切に育てられ、幼少期から言語学者、文法学者、詩人などから教育を受けます。

しかし、フィリッポス2世はそれだけでは満足せず、アレクサンドロスへもっと高い水準の教育を求めました。

彼が13歳のとき、アテナイのアカデメイア(プラトンが建てた、哲学、数論、幾何学、天文学等について研究する学園)で20年間学んだアリストテレスに打診します。

また、フィリッポスはアリストテレスのために宮殿のような学問所を設立し、エジプトからも詩人や芸術家や科学者を講師として招き入れ、アレクサンドロスら生徒たちを学ばせました。

フィリッポス2世の暗殺で20歳にして王即位

 ペロポネソス戦争(古代ギリシア世界全体を巻き込んだ戦争)以降、ギリシアは弱体化が進みました。

そんなギリシアを代表するポリスであるアテネ(古代ギリシアに存在したポリス/都市のこと)とテーベ(古代ギリシアに存在したポリス/都市のこと)が連合しマケドニアへ立ち向かいましたが、マケドニアはそれを撃破しました。

これが、カイロネイアの戦いです。

アレクサンドロスもフィリッポス2世の下で戦いに参加し、勝利に貢献しました。

そんなアレクサンドロスに転機が訪れたのは紀元前336年のことです。

父フィリッポス2世が暗殺され、20歳の若さで王に即位しました。

フィリッポス2世の死による混乱に乗じて勃発した混乱を終息させ、彼はペルシア征服へと乗り出します。

東方大遠征〜初陣〜

紀元前334年アレクサンドロスは東方大遠征を開始します。

彼が目指したのは当時世界最強の帝国であったアケメネス朝ペルシアです。

ペルシアの王に征服され半奴隷状態にあったアジア人たちを自らの手で解放することを目的としていました。

アレクサンドロス率いるマケドニア軍が最初にペルシア軍と対峙した戦いは、小アジアで繰り広げられたグラニコス川の戦いです。

ペルシア軍は最高指揮官のダレイオス3世が不在で、戦術をはじめとする指導は何人もの将軍たちによる会議に委ねられました。

ペルシアはマケドニアとの全面戦争を決意し、両軍はグラニコス川の東岸で対峙することとなります。

川を渡ってきたマケドニア軍を待ち構えるペルシア軍に対し、川の対岸まで渡って前へ進んでいかなければならないマケドニア軍の先発部隊は苦戦を強いられました。

マケドニア軍18,000、ペルシア軍14,000〜15,000(兵力については様々な見解があります)とされており、歩兵は数で勝るマケドニア軍が圧倒的に優勢でペルシア軍は岸辺に騎兵を配置して迎え撃つことを目論んでいました。

マケドニア軍は、先発部隊に続きアレクサンドロス自身が率いる本隊、そして騎兵隊を送り込んで戦闘を繰り広げます。

このグラニコス川の戦いは、マケドニア軍の勝利で終息します。

この会戦のハイライトとして数多くの記録が残っているのは、アレクサンドロスとミトリダテスの一騎打ちです。

アレクサンドロス3世(大王)の東征研究の一級の史料「アレクサンドロス東征記」の著者であるアッリアノスは、次のように著しています。

ダレイオス3世の娘婿ミトリダテスが戦列から大きく前方に馬を進め楔形になった騎兵の一団を率いているのを認めるや、彼(アレクサンドロス)もまた他に先んじて馬を飛ばし、正面からミトリダテスの顔に槍のひと突きを加えて彼を地面に突き落とした。この時ロイサケスがアレクサンドロスめがけて馬を駆け、偃月刀(えんげつとう)で彼の頭に斬りつけた。それは彼の兜の一部を跳ね飛ばしたが、兜自体はその打撃に持ちこたえた。これに対してアレクサンドロスは、槍で相手の胸当てを心臓まで刺し貫いて、彼も地上に倒した。しかしその時すでにスピトゥリダテスが背後から、アレクサンドロスに向かって偃月刀を高く振りかざしていた。一瞬早くドロピデスの子クレイトスが彼の肩先に斬りつけ、偃月刀もろともスピトゥリダテスの腕を斬り落とした。

アレクサンドロスは一騎打ちの際に自ら敵を倒した後、別の敵から斬りつけられそうになったところを側近に救われたのです。

ペルシア騎兵は敗走し、マケドニア軍は後方に取り残されたギリシア人傭兵を包囲します。

この最初の戦いに勝利しアジアへの進出に成功したアレクサンドロスは、さらに遠征を進めました。

東方大遠征〜ペルシア王との直接対決〜

紀元前333年11月、軍をさらに東へと進めたアレクサンドロスは、小アジア東部でアケメネス朝ペルシアのダレイオス3世と直接対決に臨みました。

これが、イッソスの戦いです。

小アジア西岸を南下しながら軍を進めていましたが、その途中アレクサンドロスが病床に伏したためにマケドニア軍の遠征が1〜2ヶ月間遅れてしまったのです。

一方で、大軍を率いるペルシア軍は有利な平野部(ソコイ平原)でマケドニア軍と対峙する作戦でしたが、アレクサンドロスの遠征が遅れているとの情報を得て海岸部を南下します。

両軍がすれ違いマケドニア軍は結果的に背後を取られる形となったため、大至急北へと引き返し川を挟んでの戦いが繰り広げられることとなったのです。

自分がペルシア軍に背後を取られていることを知ったアレクサンドロスには、2つの選択がありました。

一つは軍をそのまま南に進めてソコイという平原に出ることであったが、この場合、ダレイオス3世はあとを追いかけ、当初戦場にするつもりであったその地で戦うこととなります。

もう一方は、軍を北へ戻してペルシア軍と対峙することです。この2つの策の間で揺れ動き、決戦を前に不安と緊張感に苛まれていたという記述があります。

しかし、結果的にこの方法をとったことがマケドニア軍勝利の要因であるとされています。

マケドニア軍2〜3万に対してペルシア軍は10万近くにのぼり数で劣るマケドニア軍は、平原での戦いは大軍に有利なことから隘路での決戦を選んだこの決断は正しかったと言えます。

決戦は、ペルシア軍が撃破されダレイオス3世の逃走によってペルシア軍騎兵が相次いで敗走したことにより、アレクサンドロス率いるマケドニア軍の勝利で終わりました。

先述のダレイオス3世が大軍を展開できない海岸と山に囲まれた地での会戦となったことに加え、ペルシア帝国北東部のバクトリア・ソグディアナ地方の強力な騎兵部隊を動員しなかったこともペルシア軍の敗因とされています。

アレクサンドロスはこの勝利によって莫大な戦利品を得ました。

一方で、ペルシアにとってこの敗戦は事実上帝国の領土の西半分を失うことを意味していました。

アレクサンドロスはフェニキアシリア、そして紀元前332年にはエジプトを無血平定、地中海をおさえた彼の次の狙いはいよいよペルシア帝国の完全制服でした。

東方大遠征〜アケメネス朝ペルシアを征服〜

帝国をなんとしてでも守りたいダレイオス3世と、アケメネス朝に止めを刺したいアレクサンドロスの最終決戦となったのがガウガメラの戦いです。

ティグリス川を渡ったマケドニア軍は、ダレイオス3世の大軍がいるのを発見します。

対するダレイオス3世は、イッソスの戦いでの敗因を分析し大軍を引き連れて平野でアレクサンドロスを待ち構えていました。

帝国各地から強力な騎兵部隊を召集し、槍をはじめとする武器の改良、戦車も投入し全勢力をそそいでマケドニア軍を迎え撃ちます。

ところが、戦いは圧倒的な統率と戦術を駆使したマケドニア軍の圧勝でした。

ペルシア軍の準備は万全なものでしたが、イッソスの戦いの反省から今度はマケドニア軍をひたすら待ち構え決戦前日にアレクサンドロスにその地の検分を許してしまい、敵に分析の猶予を充分に与えてしまったことや、そのために守勢にはしる一方となってしまったこと、戦車は鍛え抜かれて統率の取れているマケドニア軍の前では歯が立たなかったことがペルシア軍の大敗を招きました。

さらには、検分を活かしアレクサンドロスが左右にバランスよく人員を配置したこともあるでしょう。

またしてもダレイオス3世は敗走、ついで騎兵部隊も敗走しました。

アレクサンドロスはダレイオス3世の追撃にこそ失敗したものの、ここでも多くの戦利品を得ます。

敗戦したアケメネス朝ペルシアは風前の灯火となり、紀元前330年、都であったペルセポリスが破壊されました。

ダレイオス3世は部下が離反していき、エクバタナ(メディア王国の都・現在のイランの都市)へと逃れます。

しかし、同年、バクトリア(中央アジアの地方の古名・当時はバクトリアという名の国が存在していた)のサトラップ(当時の行政官の役職の一つ)に捕まり暗殺されたことで220年間続いたアケメネス朝ペルシアは滅亡しました。

さらなる遠征は断念しスサへ帰還

アケメネス朝ペルシアを事実上滅ぼしたアレクサンドロスは、遠征軍をさらに東へと進めました。

エクバタナ、ヘカトンピュロス(現在のイラン北部の都市)、バクトリア、サマルカンド(現在のウズベキスタンの都市)を抑えソグディアナ(中央アジアのサマルカンドなどを含むザラフシャン川流域の古代名)各地を占領すると、紀元前327年にはカイバル峠を越えてインドへと到達しました。

インドでは地元の大軍と象部隊と対峙することになると知った彼は、自軍の将軍たちからの帰国を望む要望もありインドの地で東方大遠征続行を断念することを決意、スサ(現在のイランの都市)へと引き返します。

32歳の若さで逝去

スサへ帰還したアレクサンドロスでしたが、当時大帝国を築いたマケドニアの治世は不安定なものでした。

ペルシアを征服したアレクサンドロスは、ペルシアの政治体制を一新することはせずむしろアケメネス朝時代の支配体制、行政機構を受け継いでいました。

そのため高官たちのマケドニアに対する反乱の企てや不正行為が横行し、粛清はもちろん処刑された高官も複数いました。

その後任にはいずれもマケドニア人がつくこととなり、粛清は政治的なものであったとされています。

そんな帝国の情勢の中、アレクサンドロスは西地中海への遠征を企てます。

遠征の準備を終え紅海を渡ってシナイ半島へ到達し、現在のスペインのジブラルタル海峡まで攻略する計画でした。

ところが、アレクサンドロスは突然熱病を発症し回復することなくバビロンの地でこの世をさることとなります。

紀元前323年6月10日のことでした。

20代にして巨大な帝国を築き上げ、東西の文化を繋ぎ歴史に転換期をもたらしたアレクサンドロス大王の死去は、その後誰がその意志を引き継ぐかを巡る戦争に発展するほど偉大なものでした。

彼の功績は、2000年以上経った現在も決して色あせることはありません。

アレクサンドロス/アレクサンドロスの東方遠征(世界史の窓)
アレクサンドロスの遠征(Vivo)
アカデメイア(コトバンク)
グラニコス川の戦い(HISTORIA)
アッリアノス(weblio)

【買い物難民】高齢者が直面する社会問題を解説

食料品、生活必需品の調達が困難な人のことを買い物難民といいます。
過疎化が進む地域だけでなく、三大都市圏でもその人口は増加しています。
高齢者社会が進む日本の社会課題です。

キーワード解説:買い物難民

買い物難民の定義

買い物難民(買い物弱者)とは、自分が住んでいる地域で食料品の購入、生活用品の購入や役所への手続きなど、あらゆる社会サービスを受けることが困難な人々のことを指します。

過疎化で駅前のスーパーや商店街が閉鎖に追い込まれる、高齢で行動範囲が狭まってしまう、地元の企業(小売業界)が撤退してしまう、これらの要因で買い物難民が生まれています。

農林水産省の定義では「店舗まで500m以上かつ自動車利用困難な65歳以上高齢者」を「食料品アクセス困難者」としています。

2015年現在、この人口は824万人です。

2005年の調査時と比較すると、全国で21.6%増加しました。

新たな食料品アクセスマップからみた食料品アクセス困難人口の動向(農林水産政策研究所)
社会課題と市民活動(大阪市市民活動総合ポータルサイト)

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都市部の買い物難民

「近くにお店がなくて買い物ができない」こう聞くと、過疎化が進んだ地方の町を想像するかもしれません。

しかし、都市部でも買い物難民が生まれています。

2005年から2015年の10年間で三大都市圏の買い物難民の数は44.1%増加しているのです。

東京23区内では、古くなったマンションや団地に住む住民が高齢化しています。

高速道路をはじめとする大きな道路、建物、線路などが周辺にあると、近隣のお店に行くまでに大きく迂回しなければならないという事例が発生しました。

エレベーターのない団地での階段の昇り降り、距離は近いけれどなかなかたどり着けないお店、都市開発の裏ではこのようなことが起きているのです。

700万人の”買い物難民”を救う4つの方法(PRESIDENT Online)

買い物難民問題の解決策

最近はネット販売が拡大し、共働き世代や1人暮らしの若者、大学生の利用者が増えています。

もちろん電話やネットで生活必需品を手に入れることができるようになったことは、この問題の解消に役立っています。

しかし、ネット販売だけでは買い物難民問題を解決できません。

充実したネットサービスを積極的に利用する高齢者は少ないからです。

最近では、行政や企業が協力し「買い物代行サービス」に取り組んでいる地域があります。

「買い物には行けないが、食料品は自分の目で買いたい」という人には移動販売サービスもあります。

一方で、このサービスもネットを媒介として利用者と提供者がやり取りをするため高齢者にはあまり根付かないのではないかという懸念もあります。

高齢者が身近に利用できるサービスを行政が積極的に促進することが急務です。

「買い物難民」への対策事業は7割が赤字と判明!運営の改善と継続には、国のさらなる支援が必要(みんなの介護)
広がり、増え続ける買い物難民、高齢者にとっては フードデザート(食の砂漠)問題として健康に係わる問題となっています((大阪市市民活動総合ポータルサイト)

まとめ

日本は今後、ますます高齢社会が進みます。

加えて都市部への人口、産業の集中がさらに加速した場合、過疎地が増え買い物難民は増加します。

地方の衰退によって「買い物難民」は今以上の社会問題になるかもしれません。

異常気象とは?異常気象が続くとどうなる?詳しく解説!

キーワード解説:異常気象

テレビのニュースなどで、「異常気象」という言葉がよく使われていますが、異常気象がどのようなものなのかよくわからない!という人も少なくないと思います。今回の記事では、異常気象の概要や影響などを詳しく解説していきます。

・異常気象とはなんなんのか?

・異常気象の原因は?

・異常気象が我々に与える影響って??

異常気象とは

異常気象とは、「過去に経験した現象から大きく外れた現象」のことです。

気象庁が定める異常気象の定義は、「ある場所ある時期において三十年に一回以下の確率で発生する現象」とされています。

大雨や暴風等の激しい数時間の気象

  • 数か月間続く干ばつ
  • 極端な冷夏
  • 暖冬

また、竜巻や突風のような風害や大雨害・大雪害のような気象災害も異常気象に含む場合があります。

参照:気象庁|気候・異常気象について

異常気象の原因

では、なぜ異常気象は起きるのでしょうか?

異常気象の多くは、人間の活動が引き起こしていると言われています。

  • 地球温暖化
  • 温暖化による海水温度の上昇
  • 畜産業によるメタンガス排出 など

地球の環境汚染が、異常気象につながるケースは数多く確認されています。

しかし、そのほかにも、地球の気候変動のせいだとする説・地球の周期の問題だとする説などさまざまなものがあり、竜巻や熱波のような、個々の異常気象イベントについては、明確な原因は不明です。

参考文献:国立環境研究所|この異常気象は地球温暖化が原因? 気象庁|異常気象と気候変動の実態

   

異常気象の影響

では、異常気象はどのような影響を我々に与えるのでしょうか?

農作物・畜産物が不作になる

異常気象が発生し、それが続いたりすると農作物や畜産物が取れなくなることが多くあります。

大雨で農作物が流されてしまったり、長期間にわたるお天気が続き旱魃(かんばつ)が起きてしまうなどさまざまな影響があります。

また、気温が以上に上昇してしまい水田の水温が上昇してお米がうまく育たなくなってしまったり、砂漠化が進むことで牧草が生えなくなってしまい家畜を育てられなくなってしまうなど、農業に大きな打撃を与えることになります。

このような影響は、世界各地で見られ、異常気象が国際的な問題であるということがわかります。

住宅への被害

異常気象によって、水害が発生して住宅が被害を受けることがあります。

異常な規模の大雨・大風によって住宅が破壊されたり、浸水が起きたり、悪い時は家ごと流されるなど住宅が深刻な被害を受けるケースも多いです。

また、降り続いた雨によって山が地滑りを起こす土砂災害や、ダムが決壊してしまうといった水害が起きる場合もあります。

健康被害

熱中症や重度の日焼け、高温で食べ物が腐ってしまい食中毒を引き起こすなど、異常気象は多くの健康被害を我々にもたらします。

アフリカでは長期にわたる旱魃(かんばつ)が、深刻な水不足を引き起こし、家畜が大量に死んでしまったり、1100万人もの子供が危険にさらされていると言われています。

参照:干ばつがアフリカ大陸に与える影響

特にフランスでは「熱波」という、高温の空気の塊が連続して押し寄せてくる異常気象により、2003年に15,000人もの人が無くなりました。直近の2019年にも熱波によって1500人もの人が亡くなっていて、異常気象による健康被害で命を落とす人の数は、決して無視できるものではありません。

参照:Impact sanitaire modéré des canicules de l’été 2019 sur les chiffres de la mortalité

異常気象には対策が必要

今回は異常気象の概要から原因・影響を解説してきました。

異常気象は正しく恐れて、適切な対処を行うことが重要でしょう。

異常気象の原因は、まだまだ究明できていないところも多いですが、グレタさんのように、環境問題に立ち向かう若者もいます。

こうした問題に興味を持って、自分にできることをやらなくてもいいですから、少しでも考えてみることがこれからの社会作りには必要なのではないでしょうか?

【BLM】リンカーンの奴隷解放宣言後の19世紀の黒人たち

多様な人種、民族が暮らすアメリカ合衆国は、人種差別の歴史と闘ってきました。
今ではヒスパニックやアジア系の人々もたくさん住んでいますが、「差別」と聞くとやはり黒人の歴史を思い浮かべるでしょう。
アメリカにおいて黒人の地位が確立されたのは1865年のことです。
しかし、人種差別がすぐになくなることはありませんでした。

キーワード解説:19世紀の黒人差別

リンカーン大統領の奴隷解放宣言

ブラック・ライブズ・マター(BLM)運動が全米で話題となりました。

黒人に対する白人警官の行為への抗議から始まった運動です。

アメリカと人種差別問題は、アメリカ合衆国そのものの歴史と密接に結びついています。

南北戦争真っ只中の1863年1月1日、リンカーン大統領によって奴隷解放宣言が発布されました。

「アメリカ全土の奴隷たちは即時自由人としての権利をもつ」という内容です。

1865年12月、憲法修正第13条が成立し、アメリカ全土で奴隷制度が完全に廃止されます。

では、解放された黒人奴隷たちは本当の意味での自由を手にしたのでしょうか。

ご存知の通り、答えはNoです。

今回は、奴隷解放宣言後、とりわけ、19世紀後半の黒人たちについて紹介します。

「黒人取締法」の成立

南部の黒人たちは解放され自由を手にしたかに思われました。

ところが、実際には社会的地位が保証されたわけではなく政治的権利も認められませんでした。

黒人の労働力を酷使していた南部の白人農園領主たちは、奴隷制度廃止後も黒人たちを自分の支配下におき続けたいと考えます。

そして、1865年に南部の州議会で黒人取締法が制定されました。

これは、南部諸州で黒人に対して定められた様々な非人道的な法律の総称です。

土地所有の制限、夜間の外出禁止、人種間の結婚の禁止など、多岐にわたる内容でした。

 これらの諸法律は、1964年に公民権法が成立するまで続いたのです。

白人至上主義団体〜K・K・K〜

1865年12月、南北戦争中のテネシー州の南軍帰還兵士らによって組織された白人至上主義団体が創設されました。

K・K・K(クー・クラックス・クラン)です。

彼らの目的は、南北アメリカの再統合に反対することでした。

新たに選挙権を得た黒人男性に対する暴力と脅迫によってその目的を成し遂げようとしました。

彼らは降伏した北軍の黒人兵士たちを何百人と殺戮します。

街を歩いている黒人に集団で襲いかかり、選挙の際投票に来た黒人男性に銃を突きつけ投票先を強制するなど、非人道的な行為を繰り返したのです。

1871年、クー・クラックス・クラン法が制定され連邦政府の取締りで人数は減少しましたが、この時期は南部における白人至上主義がおおむね達成されたためでもあったとされています

翌年以降、KKKは事実上解体されたもののルイジアナ州の白人同盟や、サウスカロライナ州の赤シャツ隊など、各地で暴力的な反黒人団体が存在し続けました。

公民権が再び失われる

リンカーン大統領が一掃を図った奴隷制度擁護派は勢いを盛り返し、黒人への報復意思を持って政治の表舞台へと戻って来ます。

彼らは共和党の政治を批判し、暴力に加えて、黒人が選挙に行くことができないよう遠い場所に投票所を設置し投票箱を塞ぎ、あらゆる手段を使って黒人を妨害しました。

南部諸州では、父か祖父が選挙権を持っていた者にだけ選挙権を認めたり、人頭税(全ての国民に一律で課される税金)を払っている者だけに選挙権を認めたりするなど、事実上黒人を選挙から締め出したのです。

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まとめ

奴隷解放宣言は有名無実化され、黒人たちは差別と戦い続けました。

彼らが本当の意味での自由を手にするのはおよそ100年後、キング牧師の登場によるものでした。

21世紀に入った現在ですら、度々人種差別問題が議論され激しい抗議活動が行われています。

「人種差別」という言葉そのものがなくなるような時代がくるのはいつになるのでしょうか。

リンカーンの名言~人民の、人民による、人民のための政治~

アメリカ史上唯一の大規模な内戦を終結させ、アメリカ合衆国を守ったリンカーン大統領。今回は、リンカーン大統領の2つの有名な演説を紹介します。

ゲティスバーグ演説

government of the people, by the people, for the people

これをどこかで見た、あるいは聞いたことがある人も少なくないと思います。

この部分だけ和訳すると、人民の、人民による、人民のための政治という意味になります。

これは有名な、リンカーン大統領が1863年11月19日にゲティスバーグで行った演説の抜粋です。

このスピーチはたった2分ほどの短いものでしたが、南北戦争真っ只中の人々の心を掴むのには充分でした。

演説の冒頭でリンカーンは

87年前、私たちの先祖は、自由の精神に抱かれ、人は皆平等の下に創られているという信条に捧げられた新しい国家を、この大陸に誕生させた。

と述べています。

当時奴隷制度の賛否によりアメリカ合衆国が二分していた状況の中、人権派であり奴隷制度に反対していたリンカーン大統領は、どのような目的、信条の下でアメリカ合衆国が建国されたのかを確認したのです。

戦場にもなったゲティスバーグでのこの演説は、南北戦争を戦う北軍兵士、あるいは差別と戦う南部の黒人たちの士気を高めるものになりました。

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2つに割れた家

リンカーンはゲティスバーグ演説だけでなく、数々の演説を行い人々の心を掴んできました。

名言として現在にまで語り継がれているものも多くあります。

1858年、リンカーンが大統領になる前のことです。共和党から上院選の候補者に指名されたリンカーンは北部と南部の溝が深まっていった50年代後半のアメリカに対し、このように述べました。

自らに対してふたつに割れた家は、立っていられません。この政府は、半分が奴隷、半分が自由民では長く続くことはできないと確信しております。

当時、北部が自由州、南部は奴隷州でした。演説では奴隷と自由民について触れていますが、これはもちろん南北の対立のことを示しています。

リンカーンは戦争になることには反対しており、割れた家が再び一つの家に戻ることを願っていたのです。

しかし、その3年後の1861年、

どちらも戦争を否定しておりました。しかし、片方が国家を生き延びさせるより、戦争を望んだのであります。そして他方は滅ぼされるぐらいなら、戦争を受け入れたのです。そこで内乱となりました。

と述べました。

南部諸州がアメリカ合衆国を離脱し南部にある合衆国保有のサムター要塞の引き渡しを迫られた時、北軍(合衆国)はこれを拒否し、南北戦争へと突入したのです。

まとめ

彼は政治家人生の中で多くの演説をし、名言を残してきました。

アメリカ合衆国と民主主義を守った偉大な大統領の言葉には、やはり聴く者の心に響くmagicがかけられているのでしょうか。

ナポレオン誕生の地〜コルシカ島の歴史を紹介〜

コルシカ島は、地中海でもっとも美しい島だと言われています。
視覚的な美しさはもちろん、古代ローマから始まりイスラーム、フランス、イギリスなど、多くの国や民族が欲したために奥深い歴史ももっています。
あのナポレオンが誕生したことでも知られるコルシカ島の歴史の解説です。

キーワード解説:コルシカ島

コルシカ島ってどんな島?

フランスから飛行機で90分、地中海でもっとも美しいと言われているコルシカ島を紹介します。

イタリア半島とフランスの間に存在するコルシカ島は、広島県や兵庫県ほどの面積でおよそ30万人が暮らしています。

「海に立つ山」と呼ばれ山岳地帯もあります。

島最高峰のサント山の標高は2,706mにのぼり、現在は地中海を代表するリゾート地の一つです。

コルシカ島の歴史

ナポレオン誕生の地として知られるこの島の歴史をみていきましょう。

コルシカ島の歴史〜古代から中世〜

紀元前2世紀、ローマとカルタゴによるポエニ戦争の結果、コルシカ島はローマに占領されました。

島内陸部に眠る鉱物資源の獲得を目論むローマと衝突し、規模の大きな戦いも複数回起きています。

その後、コルシカ人はローマ人の奴隷として使われました。

5世紀、コルシカ島はゲルマン人の大移動の影響を受けることとなります。

ローマ帝国の衰退と、ゲルマン人や勢力を広げるイスラームの度重なる襲撃に苦しみました。

コルシカ島がローマに近かったことから、ローマ教皇はこの島の征服を目論み、キリスト教とイスラム教の布教戦争のターゲットにもなります。

さらに、6世紀以降はピサやジェノヴァといった現在のイタリアにあたる海洋都市国家に目をつけられました。

コルシカ島の歴史〜近代から現代〜

コルシカ島が転換期を迎えたのは16世紀中頃からです。

この頃からフランスが侵入し、後にフランスに帰順します。

1599年のカトー・カンブレジ条約によっていったんはイタリア系のジェノヴァに返還されますが、18世紀中頃から再びフランスの介入がすすんでいきました。

フランスに完全に帰属してからまもなく誕生したのがナポレオンです。

フランス人として生きていくことを決意した彼は、1794年にフランスとの戦いの拠点を欲して到来したイギリス軍から、96年にコルシカ島を解放しました。

様々な国、民族の思惑に翻弄されながらもそれ以後、現在に至るまでコルシカ島はフランス領となっています。

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まとめ

地中海に浮かぶコルシカ島は、その土地を欲した人々によって様々な文化が入り混ざることで多様な文化をもつ島となりました。

皆さんも、美しい自然とともに歴史を感じてみてはいかがでしょうか。

コルシカ島(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
コルシカ島の歴史(元老院議員私設資料展示館)
フランス人の憧れの秘境、美しきコルシカ島へ。(madame FIGARO・jp)