・度重なる戦争の末に成立したのが「ベトナム社会主義共和国」です。
・ドイモイ政策によって低迷した経済を立て直しました。
・1995年にはGDP成長率9.5%を記録しています。
キーワード解説:ドイモイ政策
ベトナムの南北統一とドイモイ
ベトナム南北統一の経緯
ベトナムは19世紀のヨーロッパのアジア進出でフランスの植民地となりました。
伝統文化が否定され、急速にフランス化されていったベトナム。
抵抗勢力は常にフランスの弾圧に遭いました。
1930年代、フランスは東南アジアの植民地を利用して世界恐慌で悪化した自国経済を守ろうとします。
そこへ、植民地を持っていなかった日本が東南アジアへ進出してきました。
第二次世界大戦末期、フランス軍、日本軍、ゲリラ兵たちで形成されたベトナム現地の抵抗勢力が争い、ベトナム本土は戦場となりました。
日本の撤退後、ベトナムはホーチミンがベトナム民主共和国の独立を宣言します。
フランスがそれを認めずにバオ・ダイを擁立してベトナム国を樹立、1954年のジュネーブ休戦協定が締結するまでインドシナ戦争が勃発しました。
フランスを追い出しベトナム統一かと思われましたが、1955年、それまでベトナム国があった南側の土地に今度はアメリカがベトナム共和国を成立させます。
そこから長らく緊張状態が続き、1964年の軍事衝突をきっかけに起こったのがベトナム戦争です。
ソ連や中国が支援する北ベトナムとアメリカの後ろ盾を持った南ベトナムの代理戦争のような構図でした。
アメリカの高い技術力の支援で南ベトナムの圧勝とみられていましたが、南ベトナム内のゲリラ兵に苦戦、ジョンソン米大統領が北ベトナムへ空爆を行った「北爆」が開始されました。
北爆は、アメリカが撒いた枯葉剤の影響で体の一部が繋がった双子が誕生したことが大きな問題となったことでも有名です。
1973年、財政赤字の影響やや非人道的な枯葉剤の使用が世界中から批判されたことを受け、アメリカは南ベトナムからの撤退を決定しました。
アメリカが撤退したことで一気に北ベトナムが優勢となります。
サイゴンの陥落によってついに北ベトナムが「ベトナム社会主義共和国」を成立させ、南ベトナムを飲み込む形で南北統一を果たしました。
ドイモイ政策とは
「ドイモイ」 はベトナム語で「ドイ(Doi)は変化」「モイ(Moi)は新しい」を意味します。
日本語では「刷新」と言い、大きく変化を遂げることが目的です。
社会主義国として南北統一を果たして10年、ベトナムは思うような経済成長がみられませんでした。
長らく戦場となっていたことで周辺国に比べインフラもボロボロの状態でした。
そんな状況の中、1986年、グエン・バン・リンが社会主義を捨て一部資本主義を取り入れることで経済成長を促すために打ち出した諸政策が「ドイモイ政策」です。
ドイモイ政策の中身
ドイモイ政策では主に4つの政策に重点を置きました。
具体的にみていきましょう。
1,社会主義路線の見直し
まず、社会主義路線を捨てたことがベトナム経済の発展に貢献しました。
「国民の給料を平等にしよう」という社会主義経済のシステムが経済発展を妨げていました。
どんなに働いても給料が一緒であれば、当然楽をする道を選択します。
国民のやる気がなくなることで経済が上手く回らない現状を打破するための政策でした。
社会主義路線を捨てることで、次で挙げる市場経済の導入へとシフトしていったのです。
2,資本主義経済の導入
社会主義を一部廃し、資本主義経済を導入します。
頑張れば頑張るだけお金が入ってくるシステムによって財産を形成するようになりました。
お金をもらって豊かになろうとする意欲を掻き立てることは(私たちにとっては当たり前かもしれませんが)
当時のベトナムにとっては新しいものでした。
国が関与せず私企業への裁量権を拡大し、私有財産を認めていきます。
「国のモノ」から「自分のモノ」とする意識改革を進めていったのです。
海外資本の投資も受け入れることで、大きな対外開放政策をとるようになりました。
3,国際社会への協調
20世紀末期にはグローバル化が急激に加速していきました。
安全保障の面でも、経済的な面でも、他国との協力なくしてはやっていけない時代になったのです。
そこで、当時社会主義国で周辺国とのパイプをあまり作っていなかったベトナムは方針転換を決意し、近隣諸国との関係を築いていきました。
1995年、ASEANへの加盟を果たします。
ASEANは東南アジア版EUのようなものです。
人、物、金が大きな市場に出回ることで経済成長が見込まれ、アメリカ、中国、日本などの大国との競争にも太刀打ち出来ます。
4,農業をはじめとする産業への投資
国民の暮らしに直結する分野、特に農業への投資を積極的に行いました。
その結果、農業面でも輸出大国への成長を遂げました。
ドイモイ政策によって農民は自分の土地を持つことができるようになり、売買する相手を選べるようになったことで競争原理が生まれたことが要因です。
これまでは米の輸入国だったベトナムでしたが、1989年に世界3位の米の輸出国となりました。
米やコショウ、コーヒーが主な農産物として挙げられます。
2018年現在、コーヒー豆の生産量はブラジルについで世界第2位です。
また、同年のランキングでベトナムは米の生産量も世界第5位です。
ドイモイ政策の効果
ドイモイ政策によって国民は豊かになり、大幅な経済成長を果たしました。
1995年にはGDP成長率9.5%を記録しています。
諸外国との関係も構築したことで、ベトナムと海外の文化の交流も盛んになりました。
「ベトナム」という国を海外に知ってもらうことで観光客も増え、経済発展に貢献しています。
ハノイやダナンは日本人もよく訪れる観光地となっています。
一方で、ドイモイ政策によって格差が拡大しました。
この問題は資本主義を導入している全ての国家に当てはまる問題ですが、やはりベトナムも格差社会が進みました。
発展途上国が急激に格差社会となると、困窮した人々は最低限の生活も維持できない状態に陥ります。
インフラや学校教育が充分に整っていない環境のベトナムでは、地方で生まれた子供は資本主義社会で成功することが非常に難しい不公平な社会となっているのが現状です。
最後に
ASEANの主要国であるベトナムは、今後も着実に経済成長を続けていくでしょう。
旅行でベトナムを訪れたことがある人も少なくないのではないでしょうか。
今でこそ私たちにとって身近な国ですが40年前までは度重なる戦争でボロボロの状態でした。
そのくらい歴史の傷跡はいまだに残っています。
今回は、ドイモイ政策の歴史的経緯、内容、その効果を解説しました。
ドイモイ政策は、激動の20世紀を耐え抜いたベトナムの大きな転換期となったのです。