日本が考えるべき現代公教育の3つの問題点

日本が考えるべき現代公教育の3つの問題点

今日は日本の公教育に関する3つの問題点について書いていこうと思います。

シルバー民主主義は若い世代の将来を潰している

日本の教育は問題だらけというのが現状です。

では、具体的にどう問題があるのかということを整理したいと思います。

まず、日本はシルバー民主主義であるという点です。

高齢者扶養率というデータがあります。

このデータは、15歳以上の年代の人口に対する65歳以上の高齢者の人口の比率を表したものですが、2016年のデータでは約44%となっています。

44%は高齢者の人口に占める割合としてかなり大きく、政治家が訴求するには無視できない比率です。

しかも、若い人は投票に行かない上、社会的地位や貯蓄額も低い傾向にあります(組織票や献金に繋がらない)。

結果的に政治家は若い人の意見より高齢者の意見を聞き、予算もそれに応じて配分されるという結果になっているのです

1990年には47兆円だった社会保障給付費は2017年には114兆円に増大しています。

現状、高齢者の生活を安定させるという仕事は政治家にとって最重要最優先のタスクとなっていると言っても過言ではありません。

それに比して教育費は軽んじられ、合計では増加の推移をしているものの日本の公的教育のGDP比は3.47%であり。低い水準となっています。

2017年現在、アイスランドは7.71%、デンマークは7.63%、スウェーデンノルウェーは7.55%と、やはり北欧諸国は高水準です。

また、フランスは5.46%、イギリスは5.54%、ドイツは4.81%、アメリカは4.99%と、日本はG7諸国の中でも低い水準にあるとわかります。

 

このように、日本の公的教育費GDP比は低水準に止まったままで、成長や増税による税収増は教育に全く反映されていないという現状なのです。

 

若い世代がいくら頑張ってもその世代にお金は使われず、お年寄り世代にお金が流れていく構造ができてしまっていると言えるでしょう。

親によって将来が決まってしまう子供達〜教育格差について〜

「親によって将来が決まってしまう子供達」が社会には存在します。

「正確には親の経済状況によって将来の選択肢が狭まってしまう子供達」の事です。

子供の教育にはお金が掛かる

まず私自身の話をしたいと思います。

私は現在親からの支援を頂き、大学に通わせてもらっています。

大学4年間在学するための費用は数百万円

とても今の私に払えるものではなく、小学校の頃から含めれば何千万という莫大なお金・時間・愛情をつぎ込んでくれました。

本当にありがたいです。感謝の言葉がつきません。

しかし、小中までは良いとしても、誰もが高校・大学の何百万円という学費を払えるというわけではありません。

公立高校から公立大学に通っただけでも2000万円以上の養育費(食費等含め)が掛かると言われています。

当然、大学に行けるか行けないかも親の収入に関わってきます。以下のようなデータがあります。

  • 年収200万円以下の場合、大学への進学率は28.2%
  • 年収400万円の場合は43.9%
  • 年収600万円の場合は49.9%
  • 年収800万円の場合は54.8%
  • 年収1000万円以上の場合で62%

2015年 日本労働組合総連合会より

親の年収によって教育を受けられるかどうかの幅も狭まってしまうのです。

学歴によって生涯賃金が変わるという事実

こちらのデータを見てください。

  • 男性の学歴別生涯賃金(退職金)
大学卒 286,532,740円
高専・短大 239,717,440円
高校卒 240,064,980円
中学卒 197,715,080円

※図4 男性の学歴別生涯賃金

 

  • 女性の学歴別生涯賃金(退職金)
大学卒 235,788,500円
高専・短大 201,250,480円
高校卒 184,106,620円
中学卒 148,085,240円

※図5 女性の学歴別生涯賃金

賃金データは厚生労働省・平成28年賃金構造基本統計調査から、

退職金データは平成25年就労条件総合調査から推定

 

『高卒と大卒の生涯年収の差は約5千万円ほど開き、中卒と大卒では8千万円以上の差が開いています。』

NIKKEI STYLE/マネー研究所より引用

その結果は新卒市場に乗れるかどうかや社会的な信用を得やすい等様々な要因によると思いますが、学歴によって生涯賃金が変わってしまうというのは相対的な事実としてあると思います。

親の年収によって子供が高学歴になれるかどうかが決まり、生涯賃金が決まってしまうという負のスパイラルに陥ってしまっているのです。

子供の人生は親で決まってしまう部分がどうしてもあります。

やっぱり稼ぐ事は大事

「人生はお金じゃない」と思うかもしれませんが、お金があるに越したことはないしお金がある人の方が統計的に幸せであることを示す研究結果もあります。

加えて、稼いでくれないともし政府が年金が払えないという事態になった時に生活の保障ができませんし、社会保障を維持を維持するために必要な税収も増えません。

国民の生活は50、60年後に「詰み」になる状態にきているのです。

今からでも、誰でも質の高い教育を受けられるようなシステムを整えなければなりません。

理想論かもしれませんが、やらないと日本は本当に詰んでしまいます

今の教育に必要なことはお金を稼ぐための教育だ

最後は、「今の教育はお金を稼ぐための教育になっているのか」ということについてです。

そもそも教育の目的とは何なのかということから、最適な教育内容はどんなものなのか、について考えて行きたいと思います。

そもそも教育は何のためにあるのか

さて、そもそもの話ですが、教育はなんのためにあると思いますか?

まず思い浮かぶのは「子供達が将来豊かに暮らすため」という目的です。

しかしまた、教育には投資という側面もあります。

教育という投資を受けた子供達が将来労働をする。

そのことによって、親にとっては老後を支えてくれたり、政府にとっては将来の納税者になってくれたりするという側面があるのです。

このようなデータがあります。

  • 大卒者・院卒者一人当たりの費用便益分析(平成24年時点 試算)
費用
(大学・大学院卒業者の公財政への貢献)
2,537,524円
便益
(大学・大学院卒業者の公財政への貢献)
6,084,468円
一人当たり効果額 3,546,944円

上記の国立教育政策研究所の研究によると、日本が大学教育に掛ける1人あたりの費用と便益(税収増加や失業給付額の抑制、犯罪費用の抑制等によるもの)はそれぞれ250万円と600万円になり、差額の350万円は大学教育の社会的効果として示されているのです。

要するに1人が大学に行けば政府は350万円を将来獲得することになります(高卒者と比べ約2.4倍の効果)。

この投資が成り立たなくなれば負債となってしまい、次の若い世代に負担がのしかかってしまいます。

なので、公教育を改善しようとする時は、子供の幸福と同時にどういう教育内容であれば将来の投資になるのかを考えなければなりません。

少なくとも、政府による財政出動や社会保障を維持しなければいけないという仮定がある限りはそうせざる得ないでしょう。

では、お金を稼ぐために必要な事とは何なのか?

お金を稼ぐとは主に仕事をすることです。

つまり、教育の目的をお金を稼いでもらうこととするなら、教育は最低限の教養を得る事と同時に仕事ためにあるべきものなのです。

経営コンサルタントのゲイリー・ハメル氏は、ビジネスにおける能力ピラミッドを以下のように示しています(1が下で6に近く程上になる)

能力ピラミッド

1・従順 最底辺は「従順」。毎日欠かさず出勤して、指示通りにルールや手順すべてに従うこと。
2・勤勉 仕事を途中で投げ出したりせず、優れた成果を出すことに責任をもち、骨身を惜しまずに働く。
3・専門性 知性あるいは個人としての力量。
しかし、こういったものは、インドでも中国でも低開発諸国でも獲得できるので、これから企業が生き残っていく競争力としての源にはならない。
4・主体性 主体性を持った人材は、課題や機会を見て取るとすぐさま行動を起こす。
職務説明書に縛られる指示待ち族とは違い、生まれつき積極性を備えている。
5・創造性 常識に挑戦する意欲を持ち、いつでも素晴らしいアイデアはないかとよその業界の様子を探るような、そんな資質である。
6・情熱 仕事の使命、社会をよい方向に変える手段と捉える姿勢である。
彼らは仕事に自分のすべてを傾ける。

日本人はこれらの能力をどのくらい持っているのでしょうか。

日本人は従順性、勤勉性は異論なく付いていると言えると私は思います。

日本の教育は特に小中で従順さが求められ、大学教育で勤勉さが求められます(ただ、逆に日本人は怠け者だとする意見もあります)。

専門性は微妙です。日本は、専門的な教育は高等学校から行い、大学教育も特に文系では仕事の内容とピントがずれてることがあります。

主体性、創造性、情熱については小中の教育で特に不足していると感じる人は多いです。

日本では基本的にカリキュラム以外のことは教えません。

ディスカッションが少ないため主体性を持って何かを選択することもないし、創造性を持って問題に回答するということは少ない傾向にあります。

説明に従順性、勤勉性、専門性は発展途上国でも得ることができると書いてあります。

発展途上国のように比較的教育レベルが低い国でも確答する能力を身に付ける事ができるということは、先進国の日本で身に付けられるのは当たり前とも言えます。

つまり、日本において、教育では、主体性、創造性、情熱が改善・強化しなければいけない課題と言えるのです。

もちろんこのことは問題とされ、今までの教育界では様々な改善策が練られてきました。

中でも「ゆとり教育」は数々取られてきた近年の教育対策の中で一番賛否が沸き起こったものだと言えるでしょう。

政府の対策「ゆとり教育」

「ゆとり教育」とは、簡単に言うと「個性重視の考えのもと、これまでの追いつき型(詰め込み型)教育の見直し」をしたものです。

要するに先ほどのピラミッドで言う4、5、6の能力(主体性・創造性・情熱)を上昇させるような授業を増やし、学習量や競争性を減らそうという取り組みです。

その結果、ご存知の方も多いと思いますが、「ゆとり教育」がピークの時に日本は国際的な学力が低下しました。

OECDの学力調査(PISA)では正答率が低下し、国際数学・理科教育動向調査 (TIMSS)でも日本の数値は低下しています。

これが批判され、ゆとり教育見直しのきっかけとなったのです。

ゆとり教育は学習量や競争性を緩くし思考力を上げるという考え方ですが、そもそも日本の教育は脱落者が一定数存在するという問題があります。

教育七五三と言い、高校で7割・中学で5割・小学校で3割が落ちこぼれるという現実があるのです(高校までに実に半数以上が落ちこぼれになる)。

日本の教育ではこうした「落ちこぼれ」へのケアができてないにも関わらず、「ゆとり教育」によって学習量や競争性減らしてしまいました。

国際的な学力低下に繋がるのも頷けます。

とはいえ一方で、「ゆとり教育」によって不登校の学生が減ったと言う精神的なメリットや、「国際的なテストの正答率が減ったからと言って学力が低下したと言えるのか」という疑問の意見もあります。

事実、総合的な学習の時間を始めとした思考力や問題解決能力を育ませるための授業や勉強内容を選択科目にしたことがプラスに寄与したのは予想に難くありません。

現在そうした事情を受けつつ、政府は「脱ゆとり教育」「センター教育廃止」などの詰め込み型教育を復活させ、最低限現代に合わせた路線に根ざした教育改革を行なっています。

しかし、政府が変えられることには限りがあり、「子供には〜を学ばせて欲しい」と言う教育関係者、教育委員会、親の意見を聞かねばならず、抜本的に変えられないのは事実です。

今、真剣に教育内容について議論すべき時が来ていると思います。

どんな教育内容が最適か

それでは、どんな教育内容が子供の幸福になり、将来の投資(稼いでくれること)に繋がるのか考えていきたいと思います。

ピラミッドの話に戻りますが、これからの時代ピラミッドにおける3〜6(専門性、主体性、創造性、情熱)の重要性は強まっていきます。

これは明確に数値を出せませんが、日本は仕事に必要なことを学んでいないという点と不必要なことを学んでしまっている部分が多いと思います。

その例を3つ程挙げてみたいと思います。

まず、日本社会は言うまでもなく「民主主義」であり「資本主義」です。

「民主主義」と「資本主義」。つまり政治経済については、公民の高等教育の選択科目で基礎的な理論しか教えられません。

世の中の仕組みを全く知らずに社会に出てしまっているのです。

基本的な社会の仕組みを知らなければ、間違ったことをしても気づきにくくなってしまいます。

次に、ビジネスに必要なこととは何か、意見が分かれますが、ビジネスで重要性が増しているofiiceやプログラミングについて小中で深く教えられることはありません。

これは専門性を強めるために必要なことです。

最後に、古文や漢文などの仕事、ビジネスにおいて必要性のないことも教えられています。

もちろん無駄とは言いませんが、子供の将来を考えて優先順位をつけるということが必要だと思います。

選択科目化あるいは時間量の縮小をすべきなのでは無いでしょうか。

まとめ

以上、今の教育に必要なものは何か、という事を述べてきました。

みなさんは今まで行われた教育改革をどう評価し、日本の教育をどのように変えるべきだと思いますか?

是非、あなたの意見をコメント欄に書いて教えて下さい!

 

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受験至上主義教育は正しいのか〜教育の本質を考える〜

受験至上主義教育は正しいのか〜教育の本質を考える〜

今回は受験至上主義教育が間違っているのか、昨年度まで受験生だった僕が考察していきたいと思う。

受験至上主義教育の弊害①主体性を失う

現在の入試制度のなかでは、受験で結果を残すためには暗記をすることが何よりも重要とされている。
漢字や社会科目の用語、英単語のような単純暗記だけでなく、数学の解放、英文法などの理解型暗記を求めるものもある。

これらに共通して言えることは、与えられたものを身につければよいということだ。
確かに、多くの人が工場労働者であった時代などには、与えられたものをこなすということだけで何とかなってきたかもしれない。

しかし、現代は答えのない事の解決を求められることが多いように思える。その点に関しては、受験だけで教育が終わってしまうのは、よくない事だと思う。

受験至上主義教育の弊害②多様性の欠如

多くの受験生は同じ指導要領にのっとった指導を受け、同じ共通テスト(昨年まではセンター試験)を受ける。生徒自信が学びたいことよりも、決められた受験に出る範囲を学ぶことに終始しているという受験生が多いと思う。

自分も大学生になっていろいろな活動をし、いろいろな人と出会うようになるまでは、勉強といえば受験に向けた勉強以外はほとんどしたことがない。

生徒それぞれが自分の学びたいことを学ぶ、少なくとも自分が学びたいことを探す、そういった時間を学校教育は提供すべきである。

受験至上主義教育の弊害③体力的・精神的ストレス

人生に1回~3回ほどしかない受験は、人生の大きなターニングポイントとなる。

親・教員・塾の先生など周りの人からも勉強しなさい、勉強しなさいと言われながら育った人も多いと思う。
実際に、自分が教育業界でアルバイトをしている中で、受験勉強に対して主体的に取り組もうという意欲はないが、周りの人からのプレッシャーによって大きなストレスを感じている人も少なくない。

自分も、受験期には、あまり周りから勉強しろとは言われていないが、模試の成績であったり、寝不足などから精神的・体力的なストレスを感じた。

もちろんそういった困難と向き合うことによって成長することができるとは思うが、全員が全員、立ち向かう壁が受験である必要があるのか疑問に思っている。

受験が自分にもたらしてくれたもの①努力をすることの尊さ

今度は、逆に受験を通して自分が得たものについて、書いていこうと思う。

受験を通して一番学んだことは、努力をすることの尊さである。受験勉強をしていると、自分の周りでも休み時間は全部勉強している人がいたり、夜遅くまで勉強している人がいたり、とても努力をしている人がいることに気づく。

その人たちは入試で結果が出なかったとしても、受験期にとても成長していたような気がする。
自分が頑張りたいことが見つかってない人に、努力をする機会を与えている事はいいことなのかもしれない。

受験が自分にもたらしてくれたもの②仲間

受験を通して、同じように受験に真剣に取り組もうと思っている人とつながることができた。
休み時間や放課後に一緒に勉強をした人やお互いに質問しあっていた人との仲間意識があり、今でも相談事などをしたりする。

そういった画一的な目標があるということにより、つながれた仲間がいるということは、受験が人々に与えてきた最大の産物だと思う。

受験主義教育は必要なのか

上述したように受験によって得られるものもあれば、受験主義教育の弊害もある。

よく、受験のための勉強は社会に出ると役に立たないといわれることがあるが、僕は受験を通して人間的に成長することができたと思っている。
だから、自分にとっては受験を経験してよかったなと思っている。

しかし、今のように特殊な職業につかない限りは、学歴が重視される社会はどうかと思う。

受験をする人数、大学進学する人数は減らしていかなければならない。

正直、就職するために仕方なく大学に行くという人も多く、そういった人の中で、受験勉強もまともにしない人が大学に行くの必要はあるのだろうか。

受験主義教育を是正するには①雇用の流動化・最適化

大学受験をする人の多くは、就職のためという人が多いと思う。
ということは、教育を変えるには採用を変えることが必要不可欠である。新卒一括採用から流動的な雇用に移行していくことにより、学歴だけで人を見て採用をするという現状が少しは改善されるのではないか。

そうすることにより、雇用が最適化され、人生を再チャレンジする、学びたいときに学べる、そんな社会の風潮を作ることができるのではないだろうか。

受験主義教育を是正するには①大学の数を減らす

大学の数が多すぎるのではないだろうか。

正直資格の合格率などを「売りにしている大学もあるが、資格試験は予備校でやればいいのではないだろうか。大学の数を減らして、大学はアカデミックなことに集中し、資格対策などは予備校などが追えばいいのではないだろうか。

就職予備校でしかない大学は統廃合によって減らしていかなければならない。

最後に

現在の受験至上主義教育によって、学校現場・子供たちは疲弊してきている。
もちろん、受験を経験することによって得られるものは多いため、受験をなくすべきとは思わない。

しかし、受験をしなくても自分のやりたいことをできる可能性はあるというように、多様な選択肢があるような社会にしていくべきではないか。

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【ここがおかしい高校入試】夏休み前に考える入試制度のあり方

【ここがおかしい高校入試】夏休み前に考える高校入試のあり方

今回は、受験の天王山ともいわれる夏休みを前にして、去年まで受験生だった僕が高校入試とはどうあるべきか考えていきたいと思います!
僕自身は愛知県の公立高校に通っており、私立高校の入試や他の都道府県の高校入試に対しては、知識が足りないのかもしれませんが、自分が経験したこと、聞いたことをもとに問題提起をしていきます。

ここがおかしい高校入試①内申点制度が不明瞭

最初に、内申点制度について言及していきたいと思います。
中学生の皆さん、元中学生の皆さん、内申点がどういった基準で決められているかってご存じですか?通知表を見ると、教科ごとに3~5くらいの評価基準があり、それぞれの評定が書かれていることはあるかもしれません。しかし、宿題を一回忘れたら何点マイナスになる、テストの一点はどのくらい反映されているのかなどの細かい基準は知らない人がほとんどだと思います。
つまり、内申点は教員の気分でいくらでも変えられるということです。さすがに、気分で評定をつける先生は少ないとは思いますが、自分の部活動に所属している子や仲のいい生徒にいいようにつけてしまうのは、人間なら仕方ないと思います。また、もし学校側がテストの点数の入力ミスをしていたとしても、内申点という不明瞭な数字に変えられてしまったら、生徒・保護者側から間違いを指摘することは不可能に等しいです。内申点の評価基準の不明確さはこのままでいいのでしょうか。

僕は、このままではいけないと思います。生徒の人生を左右する入試に反映される以上もっと明確な基準が必要だと思います。そこで、内申点の判定基準の公表を求めます。内申点の評価基準を、宿題一回分は何点分として換算される、授業一回分の授業態度は何点分としてカウントする、それらの点数が何点以上何点以下の人は3といったように細かく公表すべきです。そして、希望した生徒には、自分の細かい点数を確認できるようにしてほしいです。そうすることによって、偏った判断基準の教員(教員ごとに判断基準を決めるということについても考え直さなければならないが)には、生徒・保護者からの抗議が起こり、透明性の高い、平等な入試に近づくのではないか。

ここがおかしい高校入試②公立高校の問題が一緒

これは、すべての自治体でそうではないし、私立高校の入試には関係のないことなのかもしれませんが、愛知県をはじめとする多くの都道府県では、公立高校は共通の問題(共通のレベルの問題)を出題しています。正直、そのような問題で、県内トップ校の受験生、あまり勉強が得意ではない子が行くような学校の受験生の実力が正確にはかれているとは思えません。
トップ校は、本当に簡単な問題をミスなくとける生徒がとりたいのでしょうか。そういった学校もあるでしょう。しかし、簡単な問題をミスなく解ける生徒よりも、難しい問題を思考力を使って解ける生徒、分からないと投げ出さずに一行でも自分の考えを書いてくる生徒を入学させたい学校も多いと思います。また、中学の内容は高校でやり直すから、小学校の内容が理解できているかを入試で確認したい学校もあるでしょう。公立高校でも、レベルや教育方針に応じて出題内容を変えるべきだ。

ここがおかしい高校入試③単独選抜の都道府県が多い

僕の地元愛知県の高校入試制度の最も大きな特徴である複合選抜。僕はとてもいい制度だと思っていますが、現在、ほかの都道府県では導入されていません。愛知県以外の都道府県では単独選抜という制度になっています。(一部例外はありますが、すべての公立高校を受験する生徒が併願できるのは愛知県だけです)
単独選抜とは、基本的には公立高校を1校しか受験できません。それに対して、複合選抜はふたつの入試日程があり、各日程で1校ずつ受験することができます(もちろんどちらかの日程しか受験しないこともできる)。複合選抜にすることにより、第一志望の高校に力が及ばなかったとしても、第二志望の公立高校に入学できる可能性があるから、多くの受験生は自分のレベルよりも一つ上の高校を受験することができます。そうすることにより、生徒の学習意欲が増加したり、難しいことに挑戦するといったマインドをはぐくむことができると思います。高校入試の先の大学入試や就職などで、そこではぐくまれたことは生かされてくるのではないでしょうか。
このようなことから、愛知県で導入されている複合選抜制度を全国的に導入すべきと考えます。

最後に

今回は、高校受験に対しての問題提起を3つの観点からさせていただきました。中学生(浪人生や学びなおしの人もいるけど)の受験生からしたら、高校受験はこういうものなんだと受け入れている人が多いのだと思います。だからといって問題をそのままにせずに、大人がしっかりと平等で透明性のある入試を受けさせてあげることが日本の未来を担う子どもたちのためになるのではないでしょうか。

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【部活動廃止論】現役大学生が考える弊害と代替案

部活動廃止論 現役大学生が考える部活動の弊害と部活動の代替案

今回は、部活動廃止論者の僕が、なぜ部活動を廃止すべきと主張するのか、部活動に変わる文化・スポーツ教育の枠組みをどうすべきと考えているのかをまとめていきたい。

部活動廃止すべき理由①教員の質の低下

まず、部活動が存在することにより教員の質が低下していると考える。

なぜなら、授業やクラスの運営に対してはあまりやる気はないが、部活動をやりたいから教員を続けているという教員が一定数いてもおかしくないと思うからだ。
しかし、そのような教員の個人のやる気のなさだけに責任を押し付けるのではなく、子供たちにスポーツを教えたい、文化を継承していきたいといった人たちを受け入れる体制ができていないことが大きく影響しているといえる。

僕は、部活動を廃止して、後ほど述べる新たな文化・スポーツ教育の枠組みを作ることにより、そういったスポーツ・文化を通して子供たちとかかわりたいという人たちが活躍できる場を提供することが大切だと考える。

部活動廃止すべき理由②授業への影響

部活動は授業に悪影響をもたらしているといえる。

部活動での負担により、授業中に寝てしまうなど、学業に支障が出てしまう事もあり得るだろう。(しかし、これは部活動以外の活動(塾や習い事など)によっても起こりうることであり、部活動だけを責めることはできない)
それよりもむしろ部活動によりできた生徒と教員の人間関係が授業や成績評価に悪影響を及ぼしている可能性について私は指摘したい。

例えば、授業中に自分が顧問をしている部活に所属している子ばかりに発言をさせることであったり、無意識のうちに進路にもかかわる成績評価を自分の部活の子に優遇してしまったりといったことが起こってもおかしくないだろう。

部活動廃止すべき理由③教員への負担

部活動は、残業に含まれない(に等しい)と言われており、教員にとって非常に重い負担となっている。さらに、その負担に応じた報酬が払われていないというのが現状もある。

「教員は部活動のスケジュールを組むことができ、負担が少なくなるように調節できるだろう」という意見もあるが、彼らも保護者や生徒の意向などに配慮しなければならず、自由に活動を減らしたりするというのが難しい。

部活の伝統や風習など、いきなり方向性を変えるというのは、生徒や保護者、OB、OGらの反発がある可能性もあり、権限があるとはいえ教師の一存ではどうしようもないのだ。

「活動量が多い部活動の顧問に配属された教員は多くの負担を強いられる」という伝統は、なかなか変わらないと思う。

部活動廃止すべき理由④生徒の選択肢を狭める

部活動が学校の枠で区切られてしまっているため、例えば、本当は野球がしたいのにうちの学校は野球部の顧問が厳しいからやめておこうとして、その子の野球をする選択を取れなくしてしまう、野球部が強い学校に行きたいから偏差値があまりよくない学校に行く選択をしてしまうなどといったことが考えうる。

部活動と学校が同じ枠組で区切られているがゆえに、生徒が選択肢を狭められてしまっていると思う。

部活動廃止すべき理由⑤合わなかった集団から抜け出せない

もしクラスが合わなかったとしても、一年たてばクラス替えがあり、集団が変わり、毎年やり直せるチャンスがある。しかし、部活動は二年半同じ集団に所属し続けなければいけない。

いやなら部活をやめればいいという人もいるのかもしれないが、部活動のコミュニティがクラスの中でも強かったり、学校から部活動に所属することが強制されていたりということがあり、なかなかやめられないというのが現実である。

部活動廃止すべき理由⑥学校内のコミュニティに縛られてしまう

高校時代に、部活動が学校内・クラス内でも大きな影響力を持っているとを感じることが多々あった。

仮に、部活動が存在しなかったら、多くの人が学校外でのコミュニティを作ろうとして、人間関係の軸を複数のところに置くことが出き、いじめ問題なども起こりにくくなるのではないかと思う。

学校のコミュニティを超えた文化・スポーツ教育の新たな枠組みの構築

僕は、部活動を廃止さえすればいいとは思っていない。

自分自身も中学時代は野球部に所属していた。白球を追いかけた日々が仲間の大切さでや努力の尊さを教えてくれたことは否定しようがない。しかし、小学校の頃に所属していたドッジボールのクラブチームや、保育園のころからずっと所属している空手道の会から学ぶことは、同じくらいたくさんあったと思う。

文化・スポーツを通して学ぶことは多いとは思うが、なぜ学校の枠組みに縛られなければならないのだろうか。僕は、学校のコミュニティを超えて新たな枠組みを作るべきだと思う。
学校単位ではなく、学校間の壁をなくして、自由な枠組みの中でクラブチームや習い事を行うべきではなかろうか。

まずは、部活動の大会として開催されているインターハイ・甲子園が学校単位の部活動だけでなくクラブチームでも参加できるようにするところから始めてはどうか。

新たな枠組みを作ることによるメリット

まず、一人が選べるスポーツクラブの数が一種目ひとつから同じ種目の中でも複数から選べるようになり、体罰などが蔓延しているクラブは人が集まりにくくなり、体罰を減らすことに繋がるかもしれない。
また、学校という狭い空間の中で狭まっていた視野が、学校の壁を越えた枠組みを構築することにより、広い視野を持った人が育つのではないかと思う。
学校とクラブチームがそれぞれ独立することにより、学校を学問や教育方針により選ぶことができるようになり、教員がクラブチームの人間関係により偏った見方を学校現場に持ち込むことを防ぐことができる。

部活動は廃止すべき!

以上のことから、僕は部活動を廃止すべきと思う。かといって、文化・スポーツをないがしろにしてよいというわけではない。新たな枠組みを作り、文化・スポーツ教育の推進と閉塞的な學校現場に流動性をもたらすべきだ。

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