【緊急事態条項】コロナ対策で再び議論されている自民党の改憲案を解説!

中国武漢市での感染拡大を皮切りに、世界中で新型コロナウイルスが大流行。

日本国内での累計感染者数は75万人を超え、世界では1億7千万人と、2億人に迫る勢いで感染が広まっています。(2021年5月末現在)

そんなコロナ禍で「緊急事態条項」というワードが話題となっています。
今回は、「緊急事態条項」とは何なのか、成立すると何が変わるのかを解説します。

コロナとどのような関係があるのでしょうか。

緊急事態条項は憲法改正案の1つ

緊急事態条項は、2012年に自民党が発表した4つの憲法改正案の1つです。

災害や戦争が起きた際、内閣が直接法律と同じ効力を持った政令を出せることを定めた内容です。

普通、法律は国会で可決した後に初めて効力を発揮します。これは日本国憲法によって決められており、権力者が暴走して独裁的な国の運営がされるのを防ぐためのものです。

日本国憲法では、法律や政令が効力を持つためには国会の承認が必要だと明記されています。

また、憲法は「最高法規」つまり、全ての法律の上位に存在するものです。

憲法を変えずに緊急事態条項を制定しても、効力を発揮すると憲法違反になってしまう状態なのです。

そのため、自民党を中心とした憲法改正案の1つに盛り込まれています。

海外では採用されている?

緊急事態条項ですが、海外ではどのような形で採用されているのでしょうか?

ドイツ

ドイツには緊急事態条項が存在しますが、発令時にどのような対応となるかが明記されています。
これは、第二次世界大戦時に権力が集中したことの反省だと言われています。

「緊急事態を発令した場合にどうなるか」というところまで、個別の法律で規定されているのです。
つまり、発令時されると「A法はこのように変わる」「B法は効力がなくなる」など、細かい法律があります。

アメリカ

アメリカは大統領の権限が非常に強い国です。
戦争の手続きや非常時の対応も原則として大統領ができます。

ブッシュ政権がイラク戦争を決断した際に国家緊急権が話題となりました。

韓国

韓国では1970年代後半まで、大統領が非常事態を乱用する歴史が続きました。

立憲政治を正常化するために、憲法裁判所が緊急措置を慎重に審査することもあります。
しかし、汚職や私権の乱用などで大統領が逮捕される例はいまだにあります。

緊急事態条項の成立で何が変わるの?

緊急事態条項、賛否両論を呼んでいます。

【メリット】賛成派の意見

日本国憲法には、国会が機能しなくなるほどの非常事態時を想定した記述がありません。
大災害や戦争が発生した時には、一瞬の判断に大勢の命がかかっています。

そんな非常事態に国会を招集し、法案の成立を待つという従来の方法では、潜在的に国益を損ねる可能性があります。

特に国防に関しては、首相の一言で自衛隊を動かせるような仕組みがなければ非常事態の初動が遅れてしまうかもしれません。

【デメリット】反対派の意見

緊急事態条項が成立すると、首相の権限で国民の行動を制限することができます。

仮に私的な理由でこの権限を行使するような首相が現れた場合、国がファシズムの流れに傾いてしまうのではないかという懸念があるのです。

さらに、現行の憲法でも非常事態に十分対応できるとの考えもあります。

例えば、2012年には新型インフルエンザ対策特別措置法、2020年にはコロナ特措法を制定しました。
この法律によって債務支払いなどの延期がなされました。

この措置は、災害対策基本法にしたがって盛り込んだ内容であり、現行の憲法でもなんら問題はないとする意見もあります。

緊急事態条項とコロナの関係

新型コロナウイルスの感染拡大に伴って、緊急事態条項が必要だという声が再び上がりました。

先ほど解説したように、国会は、2020年3月にコロナ特措法を制定しています。(正確には、新型インフルエンザ対策特別措置法の一部をコロナにも適応しました。)

これによって私権の制限が一部可能になりました。

緊急事態条項の制定賛成派は「医療体制の脆弱さ」を訴えています。

一方で、護憲派は「憲法が問題なのではなく、憲法を遵守しようとしないことが問題だ。」と主張しています。

「国民の生活よりもオリンピックを優先することは、憲法25条、生存権で明記されている生活の保障をしていないなではないか?」

との声も上がっているのです。

緊急事態条項の賛成派・反対派、双方からさまざまな主張が飛び交っているように、「コロナ」とは切っても切れない関係があります。

まとめ

日本国憲法制定から70年以上が経過しています。

これは、改正されていない憲法としては世界最古のものです。

「憲法」は国民の権利を守るために存在します。

そのために改正が必要なのか、現行の憲法を保持すべきなのか、どちらの立場であってもその目的と意義を理解した上で考えることが大切です。

B L Mの時代の『13th-憲法修正第13条-』

人種問題と映画

人種差別問題と僕たちの世代

2020年5月25日、アメリカ・ミネソタ州においてある黒人男性が現地警察に殺害されたことから「Black lives matter(BLM)」を訴える運動がアメリカ全土、ひいては世界中に広がっている。日本においても、デモが行われる他、S N S上にも様々な意見が飛び交っており、我々もその潮流の中にいると言える。

日頃から、日本人、特に我々日本の若者は、グローバルな問題に関心が低いと言われることが多いが、今回の問題に対しては、これまでになく関心が高いと感じる。その要因の一つとして、人種問題を扱った映像作品の存在は否定できないだろう。

さて、本日紹介する作品は僕たちが知るべき「現実」を教えてくれるものだ。
この作品に描かれていることは、我々にとってあまりに非現実的でありながら、当事者にとっては現実、常識である問題を扱っている、人種と社会の作品だ。

「13th-憲法修正第13条-」

(7月1日現在、YouTubeでも見ることが出来る)

2016年の9月に出されたこのドキュメンタリーは、Netflix作品『僕らを見る目』の監督、エヴァ・デュヴァーネイの作品である。
作品内では、マイノリティに対して犯罪者であるというイメージ付けを行い、差別を肯定してきた歴史を振り返り、南部奴隷解放後から現在まで続く、マイノリティーと刑務所への大量投獄体制をテーマとする。

大量投獄体制とは、何か。

アメリカの奴隷解放以前において、奴隷は綿花・タバコを生産する安価な労働力として使用されてきた。安価な労働力を使用して生産された綿花やタバコは、安価で販売することが出来、それによって、アメリカ社会は莫大な利益を生み出していた。

しかし、奴隷解放となってしまうと、安価な労働力を失うことになる。
そこで、アメリカ社会は「元奴隷」を様々な法律で取り締まり、刑務所での懲役によって労働力を確保することにシフトした。「犯罪者」を見つけるために、これまで微罪とされ、取り締まられなかったものや犯罪とは考えられないものも厳罰化した。そうして、多くの黒人を(無実の者も当然いた)大量に投獄した。
これが、大量投獄体制である。

そもそも、アメリカでは64年までジム・クロウ法が存在し、黒人は「合法的」に差別されている。確かに56年前それは撤廃されたが、社会そのものが変わったわけではない。人は変わらず、圧倒的な差別は残ったのだ。だから、それに不満を持つ多くの黒人が犯罪に手を染め、逮捕・投獄されたというのも自然の流れだろう。
黒人は粗暴で貧乏だから犯罪を犯す、などという間違った言説が流れることもあるが、人種問題は明らかに「社会」が生み出した歪みだ。

「現実」は続く?

ここまでは、歴史の教科書でも、よく教えられる内容であるが、
驚くべきことに、現在もこの体制は続いていることを映画は伝える。

アメリカには、2012年の時点で、200万人以上もの刑務所収容者がおり、全世界の約4の1の囚人がアメリカに集中しているのだ…。

KW解説

この先の内容は映画の本編に譲りたいと思うが、せっかくなので人種主義を扱う映画をもっと楽しむためのキーワードを2つ紹介する。

クラック
元々、コカインの歴史は、粉末のコカインが、比較的富裕の白人を中心に広まっていたことに始まる。
1980年代には、固形のコカインであるクラックが新たに発明され、黒人層を中心に広まっていった。
それと同じ時期に、純粋な反麻薬運動によって始まった麻薬の取締が始まる。
この運動は、固形のクラックを、粉末型のコカインに比べ、100倍以上の量刑になるまでに重罪化させてしまう。
結果的に、多くの黒人がクラックによって逮捕され、黒人コミュニティや家庭を崩壊させてしまうという事態が発生した。

刑務所産業複合体
刑務所における懲役刑とは、刑務所内において、仕事を行いながら生活するという刑である。賃金も発生するが、非常に低いこともあり、事実上、無いに等しい。
ここに目につけたのが、企業である。懲役囚を労働力と見なすことで、人件費を抑えることが可能であるのだ。
刑務所という社会的なシステムと企業との関係。
これが、刑務所産業複合体である。

ちなみに、弁護士ドラマとして日本でもリメイクされた原作の「SUITS」においても、刑務所と、企業の関係の関係性が触れられるエピソードが存在している。
こちらもぜひ、チェックしてもらいたい。

「最強の二人」

「最強の二人」は2011年にフランスで作られた、大富豪でありながら、過去の怪我により体が不自由な老人と、その介護人となった貧しい移民の若者の物語である。
全世界で大ヒットしている名作で、2013年には日本アカデミー賞を受賞している。
そしてこの作品は、2017年にブライアン・クランストンとケヴィン・ハートによって「人生の動かし方」としてリメイクされた。

リメイク版との相違点

リメイクを見る時に重要になってくるのが、原作との相違点である。
リメイク版において、貧しい黒人のデル・スコットは、刑務所において父親と出会い、「おかえり」と言われたことで、(父親は、刑務所=黒人という構図に諦めており、刑務所=家と考えている)、自分は息子に対して、自分達とは違う生活を歩ませたいと考える場面がある。

「黒人コミュニティ」の意味

この設定は、一見ありきたりなものに感じてしまうこともあるが、重要な意味があり、現代の大量投獄体制を知っていると、この設定が、特別なものではなく、黒人コミュニティーと家族という意味において、示唆的であること気が付く。
今回は一例を紹介したが、様々な作品において人種主義の問題は扱われているのでぜひ見て、考えてください。

我々は「現実」を知らなければ。

グローバル化と、インターネット社会化によって、世界は一体になりつつあるが、真に彼らとわかり合うためにはこうした問題への理解は不可欠かもしれない。
日本人の僕らはこうした「社会問題の常識」を、あまりにも知らない。
今回のBLM運動の中で、自分に出来ることは何かと考えた時、その答えの1つは「知ること」であると思った。
21世紀において、この問題は国外の問題ではなく、一人一人が取り組むべき問題なのである。
今回紹介した「13th-憲法修正第13条-」は正直、内容として難しいところもある。
しかし、人種問題を考えるための「第一歩」として映画を見るというアクションをおこしてみてもらいたいと考えます。

【あいちトリエンナーレ】芸術・文化と行政の関係はどうあるべきなのか

芸術・文化と行政の関係はどうあるべきなのか

最近話題となっている大村秀章愛知県知事のリコール署名問題。その大きな争点のあいちトリエンナーレ問題で「表現の自由」「検閲」といった言葉が多く飛び交った。表現の自由や検閲の範囲はどこまでなのかをわかりやすくまとめ、芸術・文化と行政の関係はどうあるべきなのか考えていきたいと思う。

表現の自由、検閲の範囲はどこまで?

憲法第三章第二十一条では、「1集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。2検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。」と書いてある。
では、表現の自由、検閲とはどういったものであるのか。

表現の自由と公共の福祉

表現の自由は、時にほかの人の基本的人権と対立することがあり、ほかの人の人権を侵害しない(公共の福祉に反しない)限り、制限をされないとされている。様々な解釈があり、一概に何が正しいとは言えない部分もある。私の中では、相手の表現・宗教・思想の批判は表現の自由として認められているが、表現すること・信仰することを批判するような表現や、特定の人種・性別に対する差別を助長するよな発言、誹謗中傷などは認められないという考えだ。

検閲とは

公権力が,表現行為ないし表現物を検査し,不適当と判断する場合には発表を禁止すること。公表以前に行う事前検閲,公表後に行う事後検閲とに分れる。(コトバンク)

私の解釈では、政府や行政機関が表現に対して、審査のうえで網羅的・一般的に禁止することを指し、行政がイベントの主催者としてある作品の掲載を判断することは、他で表現することを禁止するわけでないため、検閲に当たらないと思う。(正確には、自分の意見というよりは、橋下徹氏の意見を読んで、納得したという感じ。)

表現の自由の範囲は明確に定められるの?

私の見解ではNoだ。実際に解釈によって、意見が分かれており、ここまでが表現の自由内と明確に定めることは、難しいと言わざるを得ない。

あいちトリエンナーレ問題の概要と私の見解

そもそもあいちトリエンナーレとは?

あいちトリエンナーレの公式サイトによると、あいちトリエンナーレとは、2010年から3年ごとに開催されている国内最大規模の国際芸術祭であり、「新たな芸術の創造・発信により、世界の文化芸術の発展に貢献します。」「現代芸術等の普及・教育により、文化芸術の日常生活への浸透を図ります。」「文化芸術活動の活発化により、地域の魅力の向上を図ります。」の3つを開催目的としているようだ。

2019年には、情の時代をテーマにし、津田大介氏を芸術監督に迎えた。
ちなみに18年間愛知県に住んでいた私は、一度もあいちトリエンナーレにいったことはなく、あいちトリエンナーレの存在自体も2019年の問題が起こるまで知らなかった。

問題となった作品は?

問題となったのは「表現の不自由展・その後」の中の以下の作品。
・「平和の少女像」(元従軍慰安婦を象徴する少女像)
・「焼かれるべき絵」および「遠近を超えて」昭和天皇らしき人物の肖像を燃やす映像作品
これらの作品が、政治的メッセージ性が強かったことには多くの人が納得するだろう。日本国民の感情を害するといった主張は一理あるなというのが私の感想。

参考:河村たかし名古屋市長による声明

大村知事・津田氏は間違っていたのか?

税金を使ったイベントで、このような反日ととらえられるような作品を展示することが問題であったのだろうか。反日という点だけで、この展示が開催されたことを否定するのは、安易な考えだと思う。「表現の不自由展・その後」が目指していた、表現の自由の限界や慰安婦像の問題点を社会に提起することには、一定の社会的意義があり、芸術として評価されるべきと私は思う。

愛知県民の総意として、大村知事はやめるべきというなら、リコールされても仕方ないと思うが、個人の意見としては、指摘された後の対応・発言に不適切な点があったにせよ、大村知事をリコールする必要性はないと考える(あいちトリエンナーレの問題だけを争点にするなら)。

むしろ、有名な論客を集めて、大村知事をやめさそうとしている風潮を冷めた目で見ている人が、愛知県民のマジョリティーなのではないかとも思う。

行政は芸術文化にどのようにかかわっていくべきか

当然のことながら、すべての作品にはお金を出すことはできない。すべての作品にお金を出さずに、市場原理に任せるという考えもできるが、私の立場としては、人間を人間たらしめるものとして文化・芸術・スポーツ・音楽などに公金を使うことには賛成だ。

そうなると、どこかで線引きをして、公的な支援を受けられる作品・受けられない作品を分けなければならない。誰がどのように判断するのか、これらの判断基準を明確にしていくことが求められる。判断基準が橋下徹氏が提唱する「手続き的正義」に基づくものであるべきというのが、今のところの私の意見である。

「手続き的正義」とは表現の「内容」で判定するというよりも、「手続き」をきちんと踏んでいるかどうかで判定するアプローチで、政治的な表現を公金を使って支援するようなときは片方に偏らず、双方に表現のチャンスが与えられているかを重んじるという考えだ。
、今回のあいちトリエンナーレ問題をきっかけに多くの人に感じてもらいたい。

この問題を、反日かそうでないかの議論で終わらせず、芸術文化と行政のかかわり方の根本にかかわる話だということを協調しておく。