【三国時代の英雄】曹操とは何者なのか?

三国志解説シリーズ:曹操

曹操孟徳という男

月岡芳年 「南屏山昇月 曹操」:パブリックドメインQより

曹操のプロフィール

・名前

曹操孟徳(ソウソウモウトク)

生きた年代

155〜220年

性別

出生地

豫州沛国譙県(ヨシュウハイコクショウケン。現在の安徽省亳州市譙城区アンキショウショウジョウク)

死没地

豫州河南郡洛陽(ヨシュウカナングンラクヨウ。現在の河南省洛陽市カナンショウラクヨウシ)

所属勢力

後漢(ゴカン)魏(ギ)

地位、称号、階級

魏王(ギオウ)

丞相(ジョウショウ)

諡(オクリナ。死後に中国の高い位の者に与えられる名前。):武王(ブオウ)

廟号(ビョウゴウ。「廟」とは死者が祀られる施設の事。「廟号」は祀られる際に使われる名前の事。):太祖(タイソ。王朝の始祖に使われる廟号。死後はこの名前が用いられる。)

親族

曹丕ソウヒ(次男。最終的な後継者。)

曹昂ソウコウ(長男。若くして死ぬ。)

曹植ソウショク(五男。詩で名を残す。)

曹仁ソウジン(従兄弟)

夏侯惇カコウトン(従兄弟)

夏侯淵カコウエン(従兄弟)

同時代に活躍した人物

マルクス・アウレリウス・アントニヌス

カラカラ帝  

中国の大部分を統一した「乱世の奸雄」

    曹操は、三国時代の1各を担う最大勢力魏国を築き上げた時代の覇者。

黄巾の乱(コウキンノラン。後漢末期184年中国各地で起きた大反乱)で頭角を表した。強敵だった諸侯(天下統一を目指した群雄のこと)呂布(リョフ)袁術(エンジュツ)を滅ぼし、中原(当時の中国の中心地)を統一した。

 その際に後漢(ゴカン。25~220年)の皇帝である献帝(後漢の最後の皇帝。後漢王朝は衰退の一途であったため、権力は無いに等しかった。)を抱き込み、権威を味方にする。河北(中国北部)を支配していた最大のライバル袁紹(エンショウ)を圧倒的な形勢差の中逆転し、河北の平定にも成功する。

 更に中華統一のため南方に攻め込むが、赤壁の戦いにおいて後に蜀を建国する劉備(リュウビ)と江南(中国南方の東部)を支配していた孫権(ソンケン)の連合軍に大敗し、天下三分となる。

 その後も幾度か南方に攻め込むが、その度に劉備孫権に阻まれた。曹操を表す「治世の能臣、乱世の奸雄カンユウ」とは、安定した治世の元では有能な臣下となるが、乱世では悪の君主となるということ。曹操は乱世に生まれたため、後漢王朝を滅亡に追いやった悪の君主となった。

【能力値】

指導力5

 曹操(ソウソウ)は稀代の兵法家(兵士を上手く率いる術を知っている人)でもあり、史上に残る政治家でもあった。いづれの分野でも時代を牽引し、群雄割拠の時代を三國鼎立(サンゴクテイリツ)へ意図せずとも安定させた第一人者である。官渡(カント)の戦いで1万に満たない兵力で10万の袁紹兵を破るという軍事的才覚と同時に、数々の諸侯で分裂しバラバラになっていた中原と華北を纏め上げる政治的手腕を見せている。

人望4

曹操羅貫中(ラカンチュウ)『三国志演義』では悪役で冷酷無比な人間として描かれている。もちろん史実でも陶謙(トウケン)の部下に父が殺された際に陶謙領地の住民を虐殺するなどの直情的な面を持つが、カリスマ性に優れ多くの有能な武将が曹操のためと付き従った。能力を持った人物はどんな者でも重用し、徹底的に実力主義を貫いた所も曹操への配下の信頼に繋がったと言える。華北を統一し、優れた統治を行った曹操の存在は極めてに大きく、敵方の諸侯も一目置いていた。

政治力5

 軍事的才能が際立っている曹操だが、政治力も時代屈指のものだった。曹操の領地では諸侯など地位のある者の反乱はあったものの、農民の反乱はほとんど無かった。曹操は、戦争がない時は兵士を耕筰させ、流民や農民から公募を募って農地を与えるという屯田制を実施した。そして収穫の5~6割を徴収したのである。これによっての食糧事情は安定し、持久戦に耐えられるようになった。この屯田制は戦時にかなり有利に働いたため、もこれを真似せざる得なかった。

  また、曹操は民が苦しんでいる事を憂いており、この思いを詩に残している。黄巾の乱から群雄割拠の時代までで中国の人口は激減し、飢餓や貧困も蔓延っていたため、曹操はそうした世の中を変えたいという思いがあったのかもしれない。『三国志演義』(三国時代の書物を小説化したのも)にあるような悪役曹操のイメージとは違った一面である。

知力5

   曹操は軍事的采配や政治的決定を合理的に下し、スピード感を持って国を大きくしていった。漢王朝の時代の思想の軸となっていた儒教の考えを強く批判し、合理主義・実力主義を政治の場面で取り入れ、慣習に執着せずに判断できる人物だった。

    暇さえあれば書物を読み漁り、かなりの知識を蓄えていた。名門の生まれであるため書物を読むのは当たり前だったが、かなりの熱量を持って本に向き合い、『孫子の兵法』(春秋時代の紀元前5世紀頃に記された兵法の指南書)の注釈を自分で書き編纂する程だった。今でも曹操が残した『孫子の兵法』は残っており、広く流通されている『孫子の兵法』曹操が編纂したものである。これはかのナポレオンも愛読していたという説がある程で、今でもビジネスの場面で用いられる事がある。2000年にも渡って曹操の知識や経験が残っているという事実は、彼の知略の何よりの証拠だろう。

常識破り5

  曹操は当時蔓延っていた儒教の概念に捉われない政治をし、徹底的な実力主義を敷いた。家柄が悪かとうと犯罪者であろうと有能な者であれば登用し、儒教が重んじる親孝行さや正直さ、無欲さとは関係なく登用した。それは曹操が発令した賢求令にも現れており、「人格破綻者でも犯罪者でもなんでも良いから、才能があれば俺の元に来い。」というお触れを出した。しかし、これは前述の儒教とは異なる考えであり、当時の常識とは異なった考えであり、それによる摩擦も起きた。

【見出し1:若い頃は不良だった】

pixabayより

 曹操は前漢(紀元前206年~8年)初期の丞相(ジョウショウ。行政のトップ。今で言う総理大臣。)だった曹参(ソウシン)の家系に生まれた。若い頃から知識に富み頭も良かったが、素行が悪く周りからの評判は良くなかった。後の宿敵袁紹と結婚式から花嫁を攫うなどの悪事を働いていた不良だった。しかしそんな中、その当時の軍事の最高位であった大尉(今で言う防衛大臣)の橋玄(キョウゲン)曹操の才能を見抜いていた。

ある時、曹操橋玄(キョウゲン)が紹介した有名な人物鑑定士の許ショウに「治世の能臣、乱世の奸雄」と評されている。これは、前述の通り「安定した世の中であれば良い家臣となるが、乱世の場合は悪の君主となる」ということを意味していた。

【見出し2:黄巾の乱で頭角を表す】

 曹操は初め後漢の官僚として仕事に就き、各地の官位を歴任した。出世して洛陽(当時の中国の首都)北部尉に就任し、洛陽北部の賊の討伐と治安の安定を任された。そこで曹操は当時最大の権力を持っていた宦官(多大な権力を握っていた皇帝の世話係)の親族すらも公平に処罰し、地位に関係なく法に照らして厳しく取り締まった。この態度によって権力を持つ者は曹操を嫌ったが、彼は何より法を重んじ処罰したため、やがて法を犯す者はなくなったという。

 184年張角率いる黄巾軍の反乱が起こり、曹操はその討伐を命じられる。曹操はこの戦いで軍勢の指揮官としてのデビューを果たし、皇甫嵩(コウホスウ)朱儁(シュシュン。皇甫嵩共に後漢の将軍)と共に潁川郡(エイセイグン。現在の河南省中部。)で暴れている黄巾軍の討伐に成功した。その後、功績によって太守(群の行政を担う長官。今でいう市長や知事。)に任命されるが、病気を言い訳にしてそれを辞退し隠遁生活を送った。曹操はこの間も読書や武芸の鍛錬を怠らず、自己研鑽を絶やさなかった。

 黄巾の乱は一旦収束したものの後漢は弱体化し、黄巾に続いた各地の反乱を収める事が困難になっていた。そこで霊帝(レイテイ。後漢の皇帝)は黄巾討伐で特に功績が認められた者を西園八校尉とし、皇帝直属の軍隊とした。曹操西園八校尉の1人に選ばれ、名声は更に上がった。

【見出し3:反董卓連合軍(ハントウタクレンゴウグン)に参加】

pixabayより

 当時絶大な権力を持った宦官の集団である十常侍(ジュウジョウジ)の専横が極まり、十常侍に対する官民からの批判が集まっていた。そのため、将軍らを纏める最上位の役職に就いていた大将軍何進(カシン)は宦官の排斥を画策し、曹操袁紹董卓(トウタク)などの将軍達を招集した。しかし、何進は計画実行前に十常侍の策謀によって殺されたため、曹操袁紹(エンショウ)が宮中に乗り込んで宦官の排斥を行った。その混乱の中、少帝(霊帝の次の皇帝)は行方不明となり、最終的に皇帝を保護したのは董卓(トウタク)だった。

 董卓は皇帝の権威を借りて専横を振るうようになり、相国(丞相よりも上の行政のトップ)に就任する。董卓は暴虐の限りをつくしたので、曹操袁紹董卓を見限って故郷に帰っていった。やがて董卓への批判が更に強まると反董卓連合軍が結成され、曹操もそれに参加する。これには各地の諸侯が参加し、後の呉の礎を作った孫堅(ソンケン)公孫瓚(コウソンサン。劉備の学友)などが連なっていた。

 反董卓連合軍は兵力では董卓を上回っていた。当初孫堅董卓の猛将華雄(カユウ)の首を取るなどの前進があったが、苦戦を強いられた。なぜなら諸侯達は自分の勢力の消耗を避け、戦うのを嫌がったからである。董卓打倒のために立ち上がった連合軍だが一枚岩ではなかったのだ。こうして諸侯達の会議が難航する中、董卓は都の洛陽から長安に移り、防衛の体制を整えてしまった。

 曹操はこうした連合軍の状況に業を煮やし、ほぼ自軍だけで出陣。董卓軍の武将徐栄(ジョエイ)と戦い、奮闘虚しく破れ、自身も肩に矢傷を負う。曹操はそれでも連合軍の武将を熱く説得に掛かるが、やはり自軍の消耗を嫌う諸侯は出陣を嫌がった。曹操は間も無く連合軍を見限り、陣営を離脱した。

【見出し4:躍進と父の死】

 その後、諸侯達は自分の領地を広げようと争い群雄割拠の時代に入る。当然曹操も名乗りを上げ、実力を重んじることを聞きつけ、配下には優秀な将軍や軍師が集まった。

 ある時、100万人の青州(セイシュウ)の黄巾賊が兗州(エンシュウ)を攻めてきた。兗州の領主だった劉岱(リュウタイ)は殺され、劉岱の部下は曹操を兗州の領主として引き入れる。曹操は黄巾賊を打ち破り、兵士30万人とそれ以外の男女100万人を受け入れた。この時引き入れた兵の中から優秀な者を選んで青州兵として組織した。この主力が曹操の躍進の原動力となる。

 青州兵を得て躍進を続けていた曹操であったが、父曹嵩(ソウスウ)が徐州の領主陶謙の部下に殺されたという報を受ける。これに激怒した曹操陶謙の領地を攻め、陶謙軍を攻めるとどころか住民を虐殺するという暴挙に出る。曹操は大変有能だったが、冷酷無比な面も持ち合わせていたのだった。この暴挙によって当時陶謙と関わりのあった劉備(後に三国志の1回を担う蜀を建国する諸侯)と対立し、暫くは陶謙の領地を併合できなかった。

当時の地図:ウィキペディアコモンズより

劉備の文字のある部分が陶謙の領土だった。曹操に攻められた後、陶謙はまもなく死に劉備がその後を領地を継いだ。

【見出し5:最大のライバル袁紹との対決】

pixabayより

 曹操呂布袁術(エンジュツ)といった敵を次々に打ち破り、やがて最大の敵で河北(中国の北方)を統一していた袁紹と相対するようになる。諸侯では曹操派となるか袁紹派となるかで分かれ、概ね袁紹の方が優勢な見方だった。

 予想に反して曹操は、劉備とはぐれ一時的に曹操の元に居た関羽(カンウ。劉備の配下。蜀の名将)の力を借りるなどして、袁紹との初戦に次々勝利を収める。圧倒的な兵力差があった曹操だったが、人材の使い方が上手く、兵の用い方でも上回っていた。

 いよいよ曹操は官渡(カント。中国2大河川の黄河の流れを汲んだ川。またそのほとりの地名)で雌雄を決することになる。初戦で勝利を収めていたとはいえ袁紹の兵力は10万なのに対し、曹操は1万にも満たなかった。官渡での戦いの序章は膠着状態だった。曹操は官渡 城に籠城し、袁紹はやぐらと土の山を築いて曹操の陣営に弓を射た。曹操はたまらずこれに対抗して発石車を作って袁紹側に石を投げた。陣営を出る事のない攻防が続き、両者攻めあぐねる状態が続いた。曹操側は依然として厳しい状況にあり、兵力差に加え兵糧は尽きかけ、戦いが長引くのは曹操にとってかなり不利だった。

 そんな中、袁紹の待遇に不満を持った許攸という曹操の幼馴染が投降してきた。言うには袁紹軍の兵糧は鳥巣(ウソウ)に集結しており、ここを叩けば袁紹は3日も経たずに敗走するのだという。それを信じた曹操は鳥巣を襲撃。袁紹は兵糧を失って慌てて敗走することになる。領地へと逃げ帰った袁紹は病死し、やがて曹操は河北一帯を統一することとなった。

【見出し6:赤壁の戦いで大敗北する】

pixabayより

 最大の宿敵だった袁紹を倒し、まさに破竹の勢いとなった曹操の目はついに南に向けられることになる。中国の南方中部のケイ州を治めていてた劉表(リュウヒョウ)は死亡し、その息子劉琮(リュウソウ)は幼なかったこともあり、曹操に領土を明け渡してしまう。

 曹操は南方東側の江南を治めていた孫権にも降伏を申し出るが、孫権曹操との徹底抗戦を決め、劉備と同盟を結び、周瑜(シュウユ)を筆頭に赤壁の戦いへと挑む。かくして曹操周瑜との戦いが始まったのだが、周瑜に上手く立ち回られ孫権軍得意の水上の戦いに持ち込まれてしまう。曹操軍は騎馬での戦いが得意で、常に陸上で敵を打ち破ってきた一方、江南は長江があり、水軍での戦いが多いため周瑜率いる水軍は良く訓練されていた。こうした得意分野での戦いができなくなったことに加え、曹操軍では風土病が蔓延して多くの兵士が倒れるという最悪の事態になっていた。

 曹操は10数万の兵士を有し、周瑜の兵は3万、劉備の手勢はわずか2千で、優勢には変わりわなかったものの、こうした状況的不利から戦況は膠着する。この膠着を破ったのは敵方の周瑜だった。周瑜黄蓋(コウガイ)と言う配下の武将を投降させ、曹操の船に火を付けることを画策した。さらにその火が上手く回るように、南東の風が来るじっと待っていたのだった。黄蓋の偽の投降に曹操は騙されてしまい、あっという間に曹操軍の船に火が回り、曹操は敗走した。地の利を奪われる、周瑜の計略を見抜けない等の小さなミスの積み重ねがこの大敗北に繋がってしまったのだった。

【見出し7:中華統一の夢は叶わず没する】

清朝時代(1616~1912)の肖像画:ウィキペディアコモンズより

 曹操はその後も幾度か孫権あるいは劉備を攻めるが、なかなか領地を奪うには至らなかった。しかし、国力的な優位や後漢の皇帝を擁していると言う権威的優位は変わらず、攻め込まれることはあっても領地を大きく失うことはなかった。
 曹操は212年に魏公(ギコウ。「公」は中国で使われた「王」に継ぐ爵位。「魏」の名前は後漢の献帝から与えられた。)となり、216年には魏王(ギオウ。「王」は最高の爵位。)まで登り詰め、220年洛陽で崩御した。享年66歳であった。稀代の兵法家、政治家であるだけでなく文化人としても歴史に名を残しており、建安文学(ケンアンブンガク。五言詩を中心とする詩文学)の重要格の一人であり、『孫子の兵法』の編纂者でもあった。非常に多彩な人物だったと言える。

【アレクサンドロス大王】東方遠征で帝国を築いた戦術家

今回は、古代マケドニアの英雄アレクサンドロス大王の解説です。20歳という若さで国王の地位に就き東方大遠征を進めました。わずか32年の人生でしたが、2000年経った今でも語り注がれるほど大きな功績を残しました。

キーワード解説:アレクサンドロス大王

アレクサンドロス大王のプロフィール

生没年 紀元前356年〜紀元前323年

主な親族 フィリッポス2世(父)

所属国 マケドニア王国

出身地 ペラ(現在のギリシア)

能力値

指導力:5

アレクサンドロス
は、20歳という若さで国王の地位に就き東方大遠征を進めました。
当時最強であったアケメネス朝ペルシアを破り帝国を大きなものへと成長させたのは、当然、彼の指導力があってこそです。

知力:4

彼はグラニコス川の戦いイッソスの戦いガウガメラの戦いをそれぞれ指揮し、いずれもマケドニア軍を勝利に導きました。
相手の戦略ミスに助けられたこともあり運も味方したものの、アレクサンドロスの知力がなければマケドニアはここまで大きく発展しなかったことでしょう。
特にイッソスの戦いの際には、敵が大軍を率いていると知り最後まで迷いながらも大軍が展開しづらい隘路(狭い通路が続く場所)での戦いを選択したのは彼の知略の高さを垣間見る判断です。

政治力:5

アケメネス朝滅亡後、その後継者という形で振る舞ったアレクサンドロスでしたが、古代ペルシアらしい専制政治を展開します。
ペルシアの伝統に倣って、神のように振る舞ったのです。
他にも各地にアレクサンドリアという都市を作ったり、古代ヨーロッパとアジアの融合政策を展開したりなど、巨大となった帝国を維持しました。

人望:4

アレクサンドロス出生時、マケドニア国王フィリッポス2世の跡継ぎが誕生した、と町中が歓喜に包まれました。
幼い頃から高等教育を受けあらゆる分野に対する教養と博識は多くの人々にその存在の偉大さを認めさせます。
有名なグラニコス川の戦いでの一騎打ちのエピソードをはじめ自ら現場にたって敵と戦うこの勇猛果敢な姿は、部下たちの求心力を高めたことでしょう。
一方で、宴会の席では、酔っ払って部下を処刑したという話もあります。

恋愛:5

彼の正式な結婚は29歳の時です。バクトリアの豪族の娘と結婚しました。
アレクサンドロスは彼女に恋をしたと言われている一方で、政略的なものだったとの見解もあり詳細は定かではありません。
その後、スサにてペルシア豪族との集団婚礼式を行い、自身もアケメネス朝の王族の女性と結婚しています。
他にも、捕虜を愛人として迎え入れ丁重に扱ったという記述があります。
一夫多妻制であったため不思議なことは何もありませんが、さすがは大帝国のトップといったところではないでしょうか。

アレクサンドロス大王の誕生

紀元前356年7月26日の未明、オリュンピアス王妃が男児を出産、アレクサンドロス3世と名付けられました。

誕生に伴う祝賀の行事が、ギリシアの北方のマケドニアの首都でありアレクサンドロス誕生の地でもあるペラで盛大に行われます。

王(父、フィリッポス2世)により大切に育てられ、幼少期から言語学者、文法学者、詩人などから教育を受けます。

しかし、フィリッポス2世はそれだけでは満足せず、アレクサンドロスへもっと高い水準の教育を求めました。

彼が13歳のとき、アテナイのアカデメイア(プラトンが建てた、哲学、数論、幾何学、天文学等について研究する学園)で20年間学んだアリストテレスに打診します。

また、フィリッポスはアリストテレスのために宮殿のような学問所を設立し、エジプトからも詩人や芸術家や科学者を講師として招き入れ、アレクサンドロスら生徒たちを学ばせました。

フィリッポス2世の暗殺で20歳にして王即位

 ペロポネソス戦争(古代ギリシア世界全体を巻き込んだ戦争)以降、ギリシアは弱体化が進みました。

そんなギリシアを代表するポリスであるアテネ(古代ギリシアに存在したポリス/都市のこと)とテーベ(古代ギリシアに存在したポリス/都市のこと)が連合しマケドニアへ立ち向かいましたが、マケドニアはそれを撃破しました。

これが、カイロネイアの戦いです。

アレクサンドロスもフィリッポス2世の下で戦いに参加し、勝利に貢献しました。

そんなアレクサンドロスに転機が訪れたのは紀元前336年のことです。

父フィリッポス2世が暗殺され、20歳の若さで王に即位しました。

フィリッポス2世の死による混乱に乗じて勃発した混乱を終息させ、彼はペルシア征服へと乗り出します。

東方大遠征〜初陣〜

紀元前334年アレクサンドロスは東方大遠征を開始します。

彼が目指したのは当時世界最強の帝国であったアケメネス朝ペルシアです。

ペルシアの王に征服され半奴隷状態にあったアジア人たちを自らの手で解放することを目的としていました。

アレクサンドロス率いるマケドニア軍が最初にペルシア軍と対峙した戦いは、小アジアで繰り広げられたグラニコス川の戦いです。

ペルシア軍は最高指揮官のダレイオス3世が不在で、戦術をはじめとする指導は何人もの将軍たちによる会議に委ねられました。

ペルシアはマケドニアとの全面戦争を決意し、両軍はグラニコス川の東岸で対峙することとなります。

川を渡ってきたマケドニア軍を待ち構えるペルシア軍に対し、川の対岸まで渡って前へ進んでいかなければならないマケドニア軍の先発部隊は苦戦を強いられました。

マケドニア軍18,000、ペルシア軍14,000〜15,000(兵力については様々な見解があります)とされており、歩兵は数で勝るマケドニア軍が圧倒的に優勢でペルシア軍は岸辺に騎兵を配置して迎え撃つことを目論んでいました。

マケドニア軍は、先発部隊に続きアレクサンドロス自身が率いる本隊、そして騎兵隊を送り込んで戦闘を繰り広げます。

このグラニコス川の戦いは、マケドニア軍の勝利で終息します。

この会戦のハイライトとして数多くの記録が残っているのは、アレクサンドロスとミトリダテスの一騎打ちです。

アレクサンドロス3世(大王)の東征研究の一級の史料「アレクサンドロス東征記」の著者であるアッリアノスは、次のように著しています。

ダレイオス3世の娘婿ミトリダテスが戦列から大きく前方に馬を進め楔形になった騎兵の一団を率いているのを認めるや、彼(アレクサンドロス)もまた他に先んじて馬を飛ばし、正面からミトリダテスの顔に槍のひと突きを加えて彼を地面に突き落とした。この時ロイサケスがアレクサンドロスめがけて馬を駆け、偃月刀(えんげつとう)で彼の頭に斬りつけた。それは彼の兜の一部を跳ね飛ばしたが、兜自体はその打撃に持ちこたえた。これに対してアレクサンドロスは、槍で相手の胸当てを心臓まで刺し貫いて、彼も地上に倒した。しかしその時すでにスピトゥリダテスが背後から、アレクサンドロスに向かって偃月刀を高く振りかざしていた。一瞬早くドロピデスの子クレイトスが彼の肩先に斬りつけ、偃月刀もろともスピトゥリダテスの腕を斬り落とした。

アレクサンドロスは一騎打ちの際に自ら敵を倒した後、別の敵から斬りつけられそうになったところを側近に救われたのです。

ペルシア騎兵は敗走し、マケドニア軍は後方に取り残されたギリシア人傭兵を包囲します。

この最初の戦いに勝利しアジアへの進出に成功したアレクサンドロスは、さらに遠征を進めました。

東方大遠征〜ペルシア王との直接対決〜

紀元前333年11月、軍をさらに東へと進めたアレクサンドロスは、小アジア東部でアケメネス朝ペルシアのダレイオス3世と直接対決に臨みました。

これが、イッソスの戦いです。

小アジア西岸を南下しながら軍を進めていましたが、その途中アレクサンドロスが病床に伏したためにマケドニア軍の遠征が1〜2ヶ月間遅れてしまったのです。

一方で、大軍を率いるペルシア軍は有利な平野部(ソコイ平原)でマケドニア軍と対峙する作戦でしたが、アレクサンドロスの遠征が遅れているとの情報を得て海岸部を南下します。

両軍がすれ違いマケドニア軍は結果的に背後を取られる形となったため、大至急北へと引き返し川を挟んでの戦いが繰り広げられることとなったのです。

自分がペルシア軍に背後を取られていることを知ったアレクサンドロスには、2つの選択がありました。

一つは軍をそのまま南に進めてソコイという平原に出ることであったが、この場合、ダレイオス3世はあとを追いかけ、当初戦場にするつもりであったその地で戦うこととなります。

もう一方は、軍を北へ戻してペルシア軍と対峙することです。この2つの策の間で揺れ動き、決戦を前に不安と緊張感に苛まれていたという記述があります。

しかし、結果的にこの方法をとったことがマケドニア軍勝利の要因であるとされています。

マケドニア軍2〜3万に対してペルシア軍は10万近くにのぼり数で劣るマケドニア軍は、平原での戦いは大軍に有利なことから隘路での決戦を選んだこの決断は正しかったと言えます。

決戦は、ペルシア軍が撃破されダレイオス3世の逃走によってペルシア軍騎兵が相次いで敗走したことにより、アレクサンドロス率いるマケドニア軍の勝利で終わりました。

先述のダレイオス3世が大軍を展開できない海岸と山に囲まれた地での会戦となったことに加え、ペルシア帝国北東部のバクトリア・ソグディアナ地方の強力な騎兵部隊を動員しなかったこともペルシア軍の敗因とされています。

アレクサンドロスはこの勝利によって莫大な戦利品を得ました。

一方で、ペルシアにとってこの敗戦は事実上帝国の領土の西半分を失うことを意味していました。

アレクサンドロスはフェニキアシリア、そして紀元前332年にはエジプトを無血平定、地中海をおさえた彼の次の狙いはいよいよペルシア帝国の完全制服でした。

東方大遠征〜アケメネス朝ペルシアを征服〜

帝国をなんとしてでも守りたいダレイオス3世と、アケメネス朝に止めを刺したいアレクサンドロスの最終決戦となったのがガウガメラの戦いです。

ティグリス川を渡ったマケドニア軍は、ダレイオス3世の大軍がいるのを発見します。

対するダレイオス3世は、イッソスの戦いでの敗因を分析し大軍を引き連れて平野でアレクサンドロスを待ち構えていました。

帝国各地から強力な騎兵部隊を召集し、槍をはじめとする武器の改良、戦車も投入し全勢力をそそいでマケドニア軍を迎え撃ちます。

ところが、戦いは圧倒的な統率と戦術を駆使したマケドニア軍の圧勝でした。

ペルシア軍の準備は万全なものでしたが、イッソスの戦いの反省から今度はマケドニア軍をひたすら待ち構え決戦前日にアレクサンドロスにその地の検分を許してしまい、敵に分析の猶予を充分に与えてしまったことや、そのために守勢にはしる一方となってしまったこと、戦車は鍛え抜かれて統率の取れているマケドニア軍の前では歯が立たなかったことがペルシア軍の大敗を招きました。

さらには、検分を活かしアレクサンドロスが左右にバランスよく人員を配置したこともあるでしょう。

またしてもダレイオス3世は敗走、ついで騎兵部隊も敗走しました。

アレクサンドロスはダレイオス3世の追撃にこそ失敗したものの、ここでも多くの戦利品を得ます。

敗戦したアケメネス朝ペルシアは風前の灯火となり、紀元前330年、都であったペルセポリスが破壊されました。

ダレイオス3世は部下が離反していき、エクバタナ(メディア王国の都・現在のイランの都市)へと逃れます。

しかし、同年、バクトリア(中央アジアの地方の古名・当時はバクトリアという名の国が存在していた)のサトラップ(当時の行政官の役職の一つ)に捕まり暗殺されたことで220年間続いたアケメネス朝ペルシアは滅亡しました。

さらなる遠征は断念しスサへ帰還

アケメネス朝ペルシアを事実上滅ぼしたアレクサンドロスは、遠征軍をさらに東へと進めました。

エクバタナ、ヘカトンピュロス(現在のイラン北部の都市)、バクトリア、サマルカンド(現在のウズベキスタンの都市)を抑えソグディアナ(中央アジアのサマルカンドなどを含むザラフシャン川流域の古代名)各地を占領すると、紀元前327年にはカイバル峠を越えてインドへと到達しました。

インドでは地元の大軍と象部隊と対峙することになると知った彼は、自軍の将軍たちからの帰国を望む要望もありインドの地で東方大遠征続行を断念することを決意、スサ(現在のイランの都市)へと引き返します。

32歳の若さで逝去

スサへ帰還したアレクサンドロスでしたが、当時大帝国を築いたマケドニアの治世は不安定なものでした。

ペルシアを征服したアレクサンドロスは、ペルシアの政治体制を一新することはせずむしろアケメネス朝時代の支配体制、行政機構を受け継いでいました。

そのため高官たちのマケドニアに対する反乱の企てや不正行為が横行し、粛清はもちろん処刑された高官も複数いました。

その後任にはいずれもマケドニア人がつくこととなり、粛清は政治的なものであったとされています。

そんな帝国の情勢の中、アレクサンドロスは西地中海への遠征を企てます。

遠征の準備を終え紅海を渡ってシナイ半島へ到達し、現在のスペインのジブラルタル海峡まで攻略する計画でした。

ところが、アレクサンドロスは突然熱病を発症し回復することなくバビロンの地でこの世をさることとなります。

紀元前323年6月10日のことでした。

20代にして巨大な帝国を築き上げ、東西の文化を繋ぎ歴史に転換期をもたらしたアレクサンドロス大王の死去は、その後誰がその意志を引き継ぐかを巡る戦争に発展するほど偉大なものでした。

彼の功績は、2000年以上経った現在も決して色あせることはありません。

アレクサンドロス/アレクサンドロスの東方遠征(世界史の窓)
アレクサンドロスの遠征(Vivo)
アカデメイア(コトバンク)
グラニコス川の戦い(HISTORIA)
アッリアノス(weblio)

ナポレオン誕生の地〜コルシカ島の歴史を紹介〜

コルシカ島は、地中海でもっとも美しい島だと言われています。
視覚的な美しさはもちろん、古代ローマから始まりイスラーム、フランス、イギリスなど、多くの国や民族が欲したために奥深い歴史ももっています。
あのナポレオンが誕生したことでも知られるコルシカ島の歴史の解説です。

キーワード解説:コルシカ島

コルシカ島ってどんな島?

フランスから飛行機で90分、地中海でもっとも美しいと言われているコルシカ島を紹介します。

イタリア半島とフランスの間に存在するコルシカ島は、広島県や兵庫県ほどの面積でおよそ30万人が暮らしています。

「海に立つ山」と呼ばれ山岳地帯もあります。

島最高峰のサント山の標高は2,706mにのぼり、現在は地中海を代表するリゾート地の一つです。

コルシカ島の歴史

ナポレオン誕生の地として知られるこの島の歴史をみていきましょう。

コルシカ島の歴史〜古代から中世〜

紀元前2世紀、ローマとカルタゴによるポエニ戦争の結果、コルシカ島はローマに占領されました。

島内陸部に眠る鉱物資源の獲得を目論むローマと衝突し、規模の大きな戦いも複数回起きています。

その後、コルシカ人はローマ人の奴隷として使われました。

5世紀、コルシカ島はゲルマン人の大移動の影響を受けることとなります。

ローマ帝国の衰退と、ゲルマン人や勢力を広げるイスラームの度重なる襲撃に苦しみました。

コルシカ島がローマに近かったことから、ローマ教皇はこの島の征服を目論み、キリスト教とイスラム教の布教戦争のターゲットにもなります。

さらに、6世紀以降はピサやジェノヴァといった現在のイタリアにあたる海洋都市国家に目をつけられました。

コルシカ島の歴史〜近代から現代〜

コルシカ島が転換期を迎えたのは16世紀中頃からです。

この頃からフランスが侵入し、後にフランスに帰順します。

1599年のカトー・カンブレジ条約によっていったんはイタリア系のジェノヴァに返還されますが、18世紀中頃から再びフランスの介入がすすんでいきました。

フランスに完全に帰属してからまもなく誕生したのがナポレオンです。

フランス人として生きていくことを決意した彼は、1794年にフランスとの戦いの拠点を欲して到来したイギリス軍から、96年にコルシカ島を解放しました。

様々な国、民族の思惑に翻弄されながらもそれ以後、現在に至るまでコルシカ島はフランス領となっています。

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まとめ

地中海に浮かぶコルシカ島は、その土地を欲した人々によって様々な文化が入り混ざることで多様な文化をもつ島となりました。

皆さんも、美しい自然とともに歴史を感じてみてはいかがでしょうか。

コルシカ島(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
コルシカ島の歴史(元老院議員私設資料展示館)
フランス人の憧れの秘境、美しきコルシカ島へ。(madame FIGARO・jp)

【ロゼッタストーン】シャンポリオンが発見!書かれている内容は?

キーワード解説:ロゼッタ・ストーン

ロゼッタストーンとは

今回は、とある「石」を紹介します。

イギリスの由緒ある博物館で大切に保管され、私たちが決して直接触れることのできない石「ロゼッタストーン」のことです。

ロゼッタストーンは、現在のエジプト第二の都市、アレクサンドリア近郊のラシードという町で発見された2000年前の石碑です。

一部破損していますが、残されている石のサイズは高さ114cm、幅73cm、厚さ28cm、重さ762kgで、残されている部分だけでもかなりの大きさです。

文字が刻印されている面は3段に分かれています。

  • 上段:神聖文字(ヒエログリフ)
  • 中段:民用文字(デモティック)
  • 下段:ギリシア文字

神聖文字(ヒエログリフ)は絵文字から発達して生まれたエジプト最初の文字で、民用文字はそれを民衆用に簡略化した書体のことです。

また、ギリシア文字が刻まれているのは、プトレマイオス朝がギリシア系のヘレニズム諸国の一つであったためです。

ナポレオンのエジプト遠征中に発見

1799年、ナポレオンのエジプト遠征中に、参謀ブーシャールと兵士たちが作業をしていた際、黒い大きな岩に絵文字が刻まれているのを見つけました。

ロゼッタという名前は、ラシードをヨーロッパ人がロゼッタと呼んでいたことに由来します。

発見後、ヨーロッパ諸国の学者たちが上段に刻まれたヒエログリフの解読にあたりました。

しかし、ヒエログリフの大部分が破損しており解読は難航します。

その理由の一つは、学者たちがヒエログリフを表意文字(一つ一つの文字がそれぞれ一定の意味を表す文字)だと認識して解読を図ったためです。

ところが、ヒエログリフは表意文字の他にも、表音文字(アルファベットのようなものです)や意味や文脈を決定するための文字が組み合わさっており複雑なものでした。

世界史の窓 神聖文字/ヒエログリフ

何が書かれているの?

古代プトレマイオス朝(前304~前30年に存在したギリシャ系の王朝)の国王であったプトレマイオス5世をたたえた紀元前196年の碑文です。

前半はプトレマイオス5世の功績をたたえ、後半では王のための神殿と祭りを周知する文章です。

この法令は硬い石碑に、聖なる文字と、人民用の文字とギリシア語とで刻まれ、第一、第二、第三(級)の神殿に、永遠に生きる王の側に安置されるであろう。

との記述があります。

あらゆる地域の神殿に建てられた石碑のようです。

ロゼッタストーン/日本語訳とその解説

シャンポリオンが解読に成功

ロゼッタ・ストーンの解読に初めて成功したのはフランスのエジプト学者、シャンポリオンです。

彼はヘブライ語、アラビア語、シリア語、コプト語を学び、ナポレオンのエジプト遠征によって古代エジプトに関する研究に着手しました。

1822年、シャンポリオンはヒエログリフは表意文字ではなく表音文字(一つの文字が音と結びついて意味を表す文字)であると仮定し、コプト語(古代エジプトの言語)の知識を活かして解読に至りました。

ロゼッタストーンは1801年のアレクサンドリアでのフランス軍敗北によってイギリスに引き渡され、約200年後の現在もイギリスの大英博物館で保管されています。

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【アメリカ国旗】星条旗を解説〜歴史から星の数まで〜

アメリカ国旗星条旗と呼ばれています。

・星の数は現在の50州を、横の線は独立時の13州を表しています。

・国旗に星が入っている国はアメリカを含め76ヶ国もあります。

キーワード解説:アメリカ国旗(星条旗)

アメリカ国旗の由来

アメリカ国旗(the Flag of the United States of America)は通称、星条旗(the Stars and Stripes)と呼ばれ、直訳すると「星と縞模様」を意味します。

星条旗は1777年6月14日に行なわれた第2回大陸会議の海事委員会でアメリカ国旗として制定され、赤は大胆さと勇気青は警戒と忍耐と正義白は純真さと潔白を表しています。

また、アメリカ合衆国初代大統領ジョージ・ワシントンによると、星は天を、赤の線は母国イギリスを、白の線は独立を象徴しています。

アメリカの国旗は何と呼ばれていますか?この旗は何を表していますか?(the japan times 出版)
アメリカ(米国)(世界の国旗)
米国プロファイル(AMERICAN CENTER JAPAN)

星の数と線の意味

星条旗の左上、青色の地にある白色の星は50個あり、アメリカ合衆国の50州を表しています。

独立時のアメリカは13州だったため、国旗が制定された当初の星の数は13個でした。

アメリカが拡大し州の数が増えるごとに星も追加され、1960年にハワイがアメリカ50番目の州に昇格したことで、現在の星が50個のデザインとなりました。

星条旗に赤白交互に入っている13本のストライプは、独立当初の13州を表しています。

1795年にアメリカが13州から15州に増えた際には、赤白の線も2本増えて15本となったのですが、本数が多くなると不格好で見づらいため、赤白の線は発足時の13本で固定することが定められました。

アメリカの州の数は、1818年に20州、1848年に30州、1890年に43州と、どんどん増えていくのですが、1912年に48州となり48個の星が描かれた国旗が発表されるまでは、正式な星の配置は定められておらず、星が丸や星型に配置されたものや、縦横に並んでいるものなど、様々なデザインのものがありました。

現在では、縦横比が1:1.9など、かなり詳細に国旗のデザイン比率が定められています。

国旗一覧

【番外編】星の数ランキング

1位 アメリカ(50個)

2位 ブラジル(27個)

3位 クック諸島(15個)

4位 ウズベキスタン(12個)

4位 ヨーロッパ連合(12個)

6位 ドミニカ(10個)

6位 ボリビア(10個)

6位 カーボベルデ(10個)

9位 ツバル(9個)

10位 ベネズエラ(8個)

国旗に星がある国は76ヵ国あり、星の数でアメリカは断トツの1位を誇ります。

ちなみに、2位ブラジルの27個の星は、ブラジル連邦共和国を構成する26州と1連邦直轄区を表しており、アメリカと同じ意味合いを持っています。

アメリカ合衆国(株式会社さらご)
国旗に描かれている星の数が多い国3位は?(QUIZ BANG)

最後に

世界において中心的な役割を担っているアメリカは、もちろん国旗の星の数でも1位!

誰しもが1度は見たことがある国旗です。国旗にも歴史がありストーリーがあります。

これで国旗に興味を持ったという方は、ほかの国の国旗を調べてみるのも面白いかもしれませんね!

【ドイモイ政策】ベトナム発展の起点となった世界史用語を解説

・度重なる戦争の末に成立したのが「ベトナム社会主義共和国」です。

・ドイモイ政策によって低迷した経済を立て直しました。

・1995年にはGDP成長率9.5%を記録しています。

キーワード解説:ドイモイ政策

ベトナムの南北統一とドイモイ

ベトナム南北統一の経緯

ベトナムは19世紀のヨーロッパのアジア進出でフランスの植民地となりました。

伝統文化が否定され、急速にフランス化されていったベトナム。

抵抗勢力は常にフランスの弾圧に遭いました。

1930年代、フランスは東南アジアの植民地を利用して世界恐慌で悪化した自国経済を守ろうとします。

そこへ、植民地を持っていなかった日本が東南アジアへ進出してきました。

第二次世界大戦末期、フランス軍日本軍、ゲリラ兵たちで形成されたベトナム現地の抵抗勢力が争い、ベトナム本土は戦場となりました。

日本の撤退後、ベトナムはホーチミンベトナム民主共和国の独立を宣言します。

フランスがそれを認めずにバオ・ダイを擁立してベトナム国を樹立、1954年のジュネーブ休戦協定が締結するまでインドシナ戦争が勃発しました。

フランスを追い出しベトナム統一かと思われましたが、1955年、それまでベトナム国があった南側の土地に今度はアメリカがベトナム共和国を成立させます。

そこから長らく緊張状態が続き、1964年の軍事衝突をきっかけに起こったのがベトナム戦争です。

ソ連や中国が支援する北ベトナムとアメリカの後ろ盾を持った南ベトナムの代理戦争のような構図でした。

アメリカの高い技術力の支援で南ベトナムの圧勝とみられていましたが、南ベトナム内のゲリラ兵に苦戦、ジョンソン米大統領が北ベトナムへ空爆を行った「北爆」が開始されました。

北爆は、アメリカが撒いた枯葉剤の影響で体の一部が繋がった双子が誕生したことが大きな問題となったことでも有名です。

1973年、財政赤字の影響やや非人道的な枯葉剤の使用が世界中から批判されたことを受け、アメリカは南ベトナムからの撤退を決定しました。

アメリカが撤退したことで一気に北ベトナムが優勢となります。

サイゴンの陥落によってついに北ベトナムが「ベトナム社会主義共和国」を成立させ、南ベトナムを飲み込む形で南北統一を果たしました。

ドイモイ政策とは 

「ドイモイ」 はベトナム語で「ドイ(Doi)は変化」「モイ(Moi)は新しい」を意味します。

日本語では「刷新」と言い、大きく変化を遂げることが目的です。

社会主義国として南北統一を果たして10年、ベトナムは思うような経済成長がみられませんでした。

長らく戦場となっていたことで周辺国に比べインフラもボロボロの状態でした。

そんな状況の中、1986年、グエン・バン・リンが社会主義を捨て一部資本主義を取り入れることで経済成長を促すために打ち出した諸政策が「ドイモイ政策」です。

ドイモイ政策の中身

ドイモイ政策では主に4つの政策に重点を置きました。

具体的にみていきましょう。

1,社会主義路線の見直し

まず、社会主義路線を捨てたことがベトナム経済の発展に貢献しました。

「国民の給料を平等にしよう」という社会主義経済のシステムが経済発展を妨げていました。

どんなに働いても給料が一緒であれば、当然楽をする道を選択します。

国民のやる気がなくなることで経済が上手く回らない現状を打破するための政策でした。

社会主義路線を捨てることで、次で挙げる市場経済の導入へとシフトしていったのです。

2,資本主義経済の導入

社会主義を一部廃し、資本主義経済を導入します。

頑張れば頑張るだけお金が入ってくるシステムによって財産を形成するようになりました。

お金をもらって豊かになろうとする意欲を掻き立てることは(私たちにとっては当たり前かもしれませんが)

当時のベトナムにとっては新しいものでした。

国が関与せず私企業への裁量権を拡大し、私有財産を認めていきます。

「国のモノ」から「自分のモノ」とする意識改革を進めていったのです。

海外資本の投資も受け入れることで、大きな対外開放政策をとるようになりました。

3,国際社会への協調

20世紀末期にはグローバル化が急激に加速していきました。

安全保障の面でも、経済的な面でも、他国との協力なくしてはやっていけない時代になったのです。

そこで、当時社会主義国で周辺国とのパイプをあまり作っていなかったベトナムは方針転換を決意し、近隣諸国との関係を築いていきました。

1995年、ASEANへの加盟を果たします。

ASEANは東南アジア版EUのようなものです。

人、物、金が大きな市場に出回ることで経済成長が見込まれ、アメリカ、中国、日本などの大国との競争にも太刀打ち出来ます。

4,農業をはじめとする産業への投資

国民の暮らしに直結する分野、特に農業への投資を積極的に行いました。

その結果、農業面でも輸出大国への成長を遂げました。

ドイモイ政策によって農民は自分の土地を持つことができるようになり、売買する相手を選べるようになったことで競争原理が生まれたことが要因です。

これまでは米の輸入国だったベトナムでしたが、1989年に世界3位の米の輸出国となりました。

コショウコーヒーが主な農産物として挙げられます。

2018年現在、コーヒー豆の生産量はブラジルについで世界第2位です。

また、同年のランキングでベトナムは米の生産量も世界第5位です。

ドイモイ政策の効果

ドイモイ政策によって国民は豊かになり、大幅な経済成長を果たしました。

1995年にはGDP成長率9.5%を記録しています。

諸外国との関係も構築したことで、ベトナムと海外の文化の交流も盛んになりました。

「ベトナム」という国を海外に知ってもらうことで観光客も増え、経済発展に貢献しています。

ハノイダナンは日本人もよく訪れる観光地となっています。

一方で、ドイモイ政策によって格差が拡大しました。

この問題は資本主義を導入している全ての国家に当てはまる問題ですが、やはりベトナムも格差社会が進みました。

発展途上国が急激に格差社会となると、困窮した人々は最低限の生活も維持できない状態に陥ります。

インフラや学校教育が充分に整っていない環境のベトナムでは、地方で生まれた子供は資本主義社会で成功することが非常に難しい不公平な社会となっているのが現状です。

ベトナムにおけるドイモイ政策と経済開発の課題-日本大学大学院総合社会情報研究科紀要 No.19, 109-119 (2018)

最後に

ASEANの主要国であるベトナムは、今後も着実に経済成長を続けていくでしょう

旅行でベトナムを訪れたことがある人も少なくないのではないでしょうか。

今でこそ私たちにとって身近な国ですが40年前までは度重なる戦争でボロボロの状態でした。

そのくらい歴史の傷跡はいまだに残っています。

今回は、ドイモイ政策の歴史的経緯、内容、その効果を解説しました。

ドイモイ政策は、激動の20世紀を耐え抜いたベトナムの大きな転換期となったのです。

【青天を衝け】吉沢亮演じる渋沢栄一・民間主導の近代化をめざした彼の原点【温故知新】

渋沢栄一・民間主導の近代化を志向した彼の原点

今、最も注目が集まりつつある歴史上の偉人は誰だろうか。

それは、渋沢栄一だ。

彼は「日本近代経済の父」と称され、関わった社会・公共事業は600以上に及ぶなど、彼の功績は計り知れない。中には現在にも引き継がれている組織も多くあり、今もなお日本経済に大きな影響をもたらしていると言えよう。

渋沢栄一は、吉沢亮主演の2021年度のNHK大河ドラマ「青天を衝け」で主役として取り扱われる予定である。これに留まらず、新一万円札の肖像となることも決定。ここにきて彼の存在に再び注目が集まりつつある。

今回はそんな元祖偉人・渋沢栄一について見ていこう。
彼を知ることで、私たちが生きるこの社会への理解もきっと深まるに違いない。

黎明期・渋沢栄一出生

渋沢栄一は後に第一国立銀行の頭取となり、上記の通り600以上の社会・公共事業の設立支援を行うこととなる。
特筆すべきは農民出身であるにも関わらず、士族さながらの出世を果たした彼の生い立ちだ。
その秘密の一端を、彼の出自から垣間見ることが出来る。早速紹介しよう。

渋沢は1840(天保11)年に、武蔵国血洗島(現在の埼玉県深谷市)にて生れた。もともとここは特段豊かな農村ではなかった。しかしながら、関東に入国した徳川家康が戦国期の争乱をおさめ、江戸時代は比較的平穏であったと言われている。

血洗島のあたりは領主等々の支配構造が安定しており、飢饉や打ち壊しが少なかった。このことも、平穏な時代であったことの理由とされている。

また、中山道の宿場町・深谷宿や、利根川水運の中継地点であった中瀬河岸場があり、血洗島周辺は交通の要衝であった。

つまり、平穏な時代であり交通結節点として栄えた渋沢の故郷は、農家の経営を発展させるには最適な場所だったのだ。

渋沢の一家は村内で一番古い家系。しかし、村内の中心的立場ではありながら、代々小農家であり、お世辞にも裕福であるとは言えなかった。

しかし栄一の父親の代で、藍を仕入れて藍玉に加工し、江戸の商人を介さず群馬、長野、秩父の紺屋に販売するという事業を開始。その新しいビジネスにより、村内で一、二を争う富農へと成長する。

士農工商と身分が固定されたこの時代に、農民が「商人ビジネス」をはじめ、一代にして財を築いたのである。これには先進的であると言わざるを得ない。

そして、積極的に商いに乗り出す父親の背中を見て育った栄一。彼ののちの「商売人」としての気質は、この時に養われたと言っても過言ではないだろう。普通の農民とは違う視点から社会を眺めるようになった訳である。この点で、栄一は普通より恵まれていたのかもしれない。

また、特殊な出自といえば他にもある。親戚である尾高家から四書五経書法など、普通の農民であれば享受できない教育を彼は受けることが出来た。
幼年期に高度なリテラシーを身に着けることが出来たことが、彼の生涯にどう影響したかは最早言うまでもないかもしれない。
「教育」の重要性は現代においてもしきりに叫ばれるが、まさに彼の人生はその最適例ではないか。

農民から幕臣へ、類まれな出世劇

リテラシーを身に着けると、情報感度が上がる。

彼は本格的に学問を志すようになる。1853年にペリーが浦賀に来航しているが、同時期に渋沢も江戸に出て学んでいる。社会情勢が不安定な時期だ

そこから、彼は次第に尊王攘夷運動に加担するようになる。「1863年には栄一も150両ほどの資金で槍や刀など100本ほど揃え―総勢70人ほどで高崎城乗っ取り、横浜焼き討ちを計画した(雨夜譚)」

単なる農村の一青年であった渋沢は、学問に励み、当時としては画期的なビジネスモデルから商業の可能性にいち早く目をつけた。
更には尊王攘夷運動を行い、当時の封建社会制に対しての不満を持つようになった

しかしながら、次第に攘夷の実現可能性に疑問を抱くようになる。
攘夷運動は確かに、実現性が極めて低かった。例えば薩摩藩が薩英戦争でイギリスの軍事力を思い知り、開国派に転じた話は有名だ。

そこで渋沢は一橋家の用人であった平岡円四郎のつてを頼り、尊王思想から一転して幕府側である一橋家の家臣となる。

一橋(徳川)慶喜。一橋家当主。江戸幕府15代目にして最後の征夷大将軍。大政奉還により政権を朝廷に移譲した。

農民出身の為最初は軽輩(下の身分のもの)として加わったものの、渋沢のその能力は高く評価され、最終的には、慶喜の弟、徳川昭武に随行してパリ万博の視察団に加わるという出世を果たしている。

余談だが、彼の出世劇は冷静に考えてもすさまじいものがある。元々一農村出身の青年でしかなかった彼が、幕臣となり、外国視察すら任されている。

外国視察の目的は列強諸国の先進知識収集であるが、途方もない費用がかかる。もちろん飛行機などない時代。いつ沈むともしれない木造船でヨーロッパを目指すのである。しかも外国との交流を一切絶っていた日本から。並みの人間には到底任せられない。「本当に賢く、やり遂げる器量のある人間」にしか成し遂げられない大役だ。

『民が栄えてこその国』彼の社会観形成

さて、パリ万博で渋沢が目にした欧米列強の近代化の進展具合だが、これは彼にとっても非常に衝撃的であった。
近代的軍事技術の展示のほかに、渋沢は鉄道によって結ばれた欧州全体の発展に強く感銘を受けた。
アヘン戦争で清国が敗北し、欧米列強が植民地支配を益々進めようという段で、当時の日本の士農工商幕藩体制といった旧態依然とした部分や、産業構造の未熟さに改めて限界を感じたに違いない。

 

振り返れば、渋沢は父の代から藍玉のビジネスを行っていた。それは作物を栽培するだけの旧来の農民の枠を超えていた。
また江戸の商人を介さず直接遠方と取引を行うなど当時としては画期的であった。

これらのことが、のちの渋沢の民間主導の国家観、言い換えれば市民による積極的な資本主義経済への参加を後押しする姿勢につながっていると言えるのではないだろうか。

また、立身出世を地で行く彼には、身分固定社会は滑稽に映っただろう。
資本主義は、実力主義だ。皆が競い合ってこそ、文明が花開く。
彼はきっとどこかでそう確信していたのではないだろうか。

第一国立銀行

渋沢は大政奉還後、慶喜について駿府にわたり、その後大隈重信の再三の頼みで明治新政府の仕事をするようになるが、最終的には民間に下り、第一国立銀行を創設するに至る。そして、資本主義社会を後押しする為、600もの社会・公共事業に関わった。

名前を変え、形を変え、今にも残る会社もある。彼の功績は、今に生きている

さいごに

渋沢が生きた時代は、我々のそれとは大きく違う。単純比較は出来ない。また彼は一般的な農民に比べ、遥かに恵まれた環境に生まれ落ちた。そのことは否定されるべきでない。

しかしながら、彼の人生から我々が学び取れるものは計り知れない。それが具体的に「何か」はここでは明示しないでおく。

現在、急速な国際化デジタルトランスフォーメーションにより、5年先の未来すら分からない時代に突入しつつある。
そんな変化の時代において、渋沢栄一から学び取れるものは、何だろうか。

島田昌和(2011年)『渋沢栄一 社会起業家の先駆者』岩波新書

https://atomic-temporary-151149301.wpcomstaging.com/2020/06/25/meiji-ishin/

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英雄・ナポレオンってどんな人物?ナポレオン帝国とその生涯

温故知新 U25歴史講座:「ナポレオン・ボナパルト」


名前
ナポレオン・ボナパルト

生きた年代(死没した年齢)
1769~1821

配偶者
ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ (1796年 – 1809年)
マリア・ルイーザ (1810年 – 1821年)

主な親族
カルロ・ブォナパルテ(父)
マリア・レティツィア・ボナパルト(母)
ジョゼフ・ボナパルト(兄)
ルイ・ボナパルト(弟)
シャルル=ルイ=ナポレオン・ボナパルト(ナポレオン3世)(甥)

同時代に活躍した人物
ジョージ・ワシントン(アメリカ合衆国初代大統領)
杉田玄白(解体新書の翻訳)

フランス市民は絶対王政によって弾圧に苦しみフランス革命を起こし、いくつもの暫定的な政権が起こっては消えていった。そんな不安定期に台頭したのがナポレオンである。
18世紀末から19世紀初頭にかけて活躍したフランスの皇帝で、コルシカ島出身の軍人である。フランス革命中、ジャコバン派(フランス革命期の左翼政治党派)を支持し、1793年12月に革命派の手中にあったツーロン港の砲撃を指揮して奪回に成功し、准将に昇進、功績をあげたが、民衆の不満が爆発して起こったテルミドール反乱で一時投獄された。

その後96年にイタリア遠征軍司令官に任命されオーストリアを撃破し、一気に名声を高めることとなった。98年エジプトへ遠征した後、民衆の支持を得て99年のクーデターによって統領政府と呼ばれる新しい政府をを樹立、事実上の独裁権を掌握した。1804年に国民投票を実施し、圧倒的支持でナポレオン1世と名を改めて皇帝に就任した。英雄となり絶頂を迎えたナポレオンであったが、1814年のモスクワ遠征、翌年のワーテルローの戦いで相次いで敗戦し退位、大西洋のセントヘレナ島へ流刑となり、1821年にその地で生涯を終えた。

パラメーターで分析「ナポレオン・ボナパルト」

指導力:5

 ナポレオンは27歳という若さでフランス軍のイタリア遠征指揮官に任命され、数的には圧倒的な劣勢の中、見事サルデーニャ・オーストリア連合軍を破り、ヨーロッパ各国にその名を轟かせた。そして何と言っても、ナポレオンが革命期の混乱状態を終結させ安定させたことは、説明するまでもなくその秀でた指導力を象徴している。

人望:5

 度重なる遠征で、何度も部下をまとめ上げたことから、彼の人心掌握術は優れ
たものであったと言えるだろう。また、一度敗戦してエルバ島へ渡って間もなく本土へ帰還し、短い期間ではあったものの皇帝の地位を再び手に入れることができたのは、彼の人望の暑さがあってこそのものだある。

政治力:5

 彼は一連のヨーロッパ各国への遠征という対外政策だけでなく、内政面でもフランスを大きく変えた人物であった。フランス銀行を設立し、教育制度の改革にも取り組んだ。そして、後世に残るものとして最も評価されているのはフランス民法典の編纂である。

知力:4

 劣勢を跳ね返す巧みな戦術や、皇帝就任後のトラファルガー沖の海戦でのイギリスに対しての敗北ですぐにイギリスを諦め大陸制覇に移る決断力、周辺国の王を親族で固めるといった行動など、ナポレオンは世界史でも屈指の知将であったと言える。しかし、モスクワ遠征では、ロシア側の思惑にはまり極寒のロシアでの焼き払い戦術に苦しむこととなった。

思想家:4

  ナポレオンは政治家、皇帝として名を残しているが、同時に、優秀な詩人、思想家でもあった。人間観察力に長けており、思想家としていくつもの名言を残している。「愚人は過去を、賢人は現在を、狂人は未来を語る。」というナポレオンの残した言葉がある。これは過去に縛られず歴史に新たなページを刻んだナポレオン=ボナパルトらしい言葉ではないだろうか。

出生から覇権への道

 1769年に地中海西部のコルシカ島の貧しい貴族の家に生まれる。当時はナポレオーネ・ディ・ブオナパルテというイタリア人風の名前であった。フランスの士官学校を卒業し砲兵将校となったが、1793年、コルシカ島の独立運動に参加し、指導者と衝突し家族でフランスに亡命した。亡命後は革命軍に加わり、その才能を認められた。

 1794年のテルミドール9日のクーデターの際には彼はロベスピエール派(中道左派勢力)とみなされ一時投獄され、地位を失ったものの、パリの王党派(右翼、国王を擁護する勢力)の反乱を鎮圧したことで総裁政府の信頼を得た。オーストリアを攻略するための1796年のイタリア遠征では、当時27歳であったナポレオンが司令官に抜擢され、サルデーニャ・オーストリア連合軍を破った。フランス軍実数25000に対しサルデーニャ・オーストリア連合軍70000と、数では明らかに劣っていたがサルデーニャ王が休戦を申し入れ、サヴォイアとニース地方のフランスへの割譲や、賠償金(戦争に敗北した側が勝利した側へ支払う金銭のこと)支払い、イタリア北部ピエモンテ地方へのフランス軍通過の容認等の条件を飲ませた。翌97年にオーストリアへと迫り、和約を結んだことで第1回対仏大同盟(イギリスをはじめとした各国が革命がすすむフランスの脅威に立ち向かおうと結束した同盟。当時、ヨーロッパは絶対王政であり、フランス革命により民主化の波が自国にも押し寄せることをヨーロッパ各国の貴族は恐れた)を崩壊させる事に成功した。

 1798年、イギリスのインド支配を阻む目的でナポレオンはエジプト遠征を率いた。ところが、エジプトの占領には成功したものの、フランス艦隊はアブキールでイギリスのネルソン艦隊に敗北し、エジプトに釘付けとなった。一方、1799年にはイギリスやロシア、オーストリアが第2回対仏大同盟が結ばれ、国内の政治状況も考慮し、ナポレオンは軍をエジプトに残してフランスに戻ることとなった。

 ナポレオンが国内の実質的な最高権力者に上り詰めたのもこの年のことである。国内の有力者(シェイエス、タレーラン、フーシェら)の協力の元、クーデターの計画が図られた。1799年11月9日、ついにナポレオンは軍を率いてクーデターを実行した。総裁政府を倒し、臨時統領政府を樹立したこの出来事は、その日が革命暦ブリュメール18日であったことから、ブリュメール18日のクーデターと呼ばれる。新憲法が作られ、国民投票で圧倒的多数の賛成をえてクーデターは承認された。4院制の議会、3人の統領(執政)からなる政府が組織され、ナポレオンは任期10年の第一統領(あくまでリーダーは3人いるという前提)となって独裁的な権力を掌握した。

ナポレオン帝国と大陸制覇

 1800年、ナポレオンはオーストリアとの戦争を再開しこれを破り、翌年、リュネヴィル(フランスの都市)でオーストリアとの講和を結んだ。1802年、イギリスとアミアンの和約を結んだ。この二つの講和によって、一時的ではあったがヨーロッパには戦争のない国際平和がもたらされた。革命以来フランス政府と関係が悪化していた教皇に対しても、ナポレオンは1801年に宗教協約(コンコルダート)を結び、フランスにカトリック復活を認めて和解した。

 1802年に終身統領となったナポレオンは、1804年の国民投票でナポレオン1世として皇帝となり、第一帝政という政治体制を開いた。また、この時の国民投票の結果は357万2339対2579という圧倒的多数の大差であった。この後、ナポレオンは再び積極的な対外政策を推し進め、大陸制覇へと歩みだした。

 イギリス首相ピットは、フランスの第一帝政に対抗して、1805年5月、オーストリア、ロシアを誘って第3回対仏大同盟を結成した。ナポレオンはイギリス侵攻計画を立てたが、同年10月、ジブラルタル海峡北西のトラファルガー沖の海戦でフランス・スペイン連合艦隊はネルソン率いるイギリス艦隊に破れた。この敗北でナポレオンは対イギリス上陸作戦を断念し、大陸制覇に方針を変えたのである。一方、陸上の戦いでは大きな勝利を収めた。同年12月、現在のチェコの地で行われたアウステルリッツの戦い(三帝会戦)では、ナポレオンはロシア(アレクサンドル1世)・オーストリア(神聖ローマ皇帝フランツ2世)両軍を撃破し、第3回対仏大同盟を崩壊させた。

 その後、イタリア、オランダを支配下においたナポレオンは、1806年西南ドイツ16の国をまとめ、ナポレオンを盟主とするライン同盟という連邦国家を結成した。これにより、800年以上続いた神聖ローマ帝国は完全消滅した。プロイセン(現在のドイツ北部とポーランド北部にあたる)、ロシアはナポレオンを脅威に感じ、フランスに宣戦した。しかしナポレオンの勢いは止まることなく、1807年、ティルジット条約で両軍に屈辱的な内容の講和を押し付けた。プロイセンは領土の半分を失い、賠償金と軍備の制限が課せられた。また、ポーランドにはワルシャワ大公国が建てられた。

 これによりナポレオンはヨーロッパの大部分を支配下におくことに成功。支配国の王も、ナポレオンの一族が務めた。弟ルイはオランダ王、兄ジョゼフはナポリ王となった。オーストリア、プロイセン、ロシアはフランスの同盟国とされ、協力を要請された。1809年ナポレオンは皇后ジョゼフィーヌと離婚し、翌10年オーストリア皇女のマリア=ルイーザを后とし、ヨーロッパの旧勢力との結びつきをはかった。

大陸封鎖とナショナリズムの台頭

 ナポレオンは、ヨーロッパ大陸の大部分の支配に成功したが、イギリスの対抗に苦戦を強いられていた。フランスに屈しないイギリスに対して、1806年にベルリン勅令(大陸封鎖令)を出し、大陸諸国にイギリスとの貿易および通信を全面的に禁止した。イギリスとその植民地の商品の取り引き、その地域からの船の入港も禁止した。これには、イギリスに対して経済的圧力を加えるだけでなく、フランス産業資本にヨーロッパ大陸市場を確保しようとする目的もあった。ところが、それは同時に、イギリスに穀物を輸出しイギリスから生活必需品と工業製品を輸入しているロシア、プロイセン、オーストリアにとっては、自国の経済が破壊されることを意味した。フランスの工業製品はイギリスに比べ高く、フランスは農業国であるため穀物の輸入を必要としなかったからである。大陸封鎖令は、当時のヨーロッパの経済システムを無視開いたものであったのだ。

 ナポレオンの制服は、自由・平等のフランス革命精神を非征服地の諸民族に広めた。自由の精神は、圧政に対する抵抗、フランスの支配からの独立など、ナポレオン支配下諸民族のナショナリズム、反ナポレオン運動を生み出した。

 プロイセンでは、ナポレオン支配下でシュタイン、ハンデンベルクらが指導して改革が行われた。農奴解放、都市自治制度の改革、中央行政機構改革などである。フランスの制度を学んだ軍制改革は、グナイゼナウやシャルンホルストが進めた。また、フンボルトは教育改革を行い、ベルリン大学が創設された。フィヒテは、「ドイツ国民に告ぐ」という講演で戦争の敗北で自信を喪失したドイツ人の愛国心を鼓舞した。

 ナポレオンの兄ジョゼフが王となったスペインでは、1808年5月に首都マドリードで市民の反乱がおこった。この反乱はフランス軍によって鎮圧されたが、反乱と抵抗はスペイン各地に広がり、1814年までゲリラ活動が起こりナポレオンを悩ませた。

ナポレオン帝国の崩壊

 天下を築きあげたナポレオンの第一帝政はロシアへの遠征を機に崩壊の一途をたどることとなる。ナポレオンの大陸封鎖令は穀物をイギリスに輸出していたロシアの農業経営に大きな打撃を与えるものであった。1812年、ロシアは大陸封鎖令に反してイギリスへの穀物輸出を再開した。これに制裁を加えるためナポレオンは60万の大軍を動員し、5月に大遠征を開始した。ロシア軍は戦いを避け、ゆっくりと後退し、ナポレオン軍をロシア本土の奥へと引きずりこんだ。9月14日、モスクワに入城したが、ロシアの焦土作戦によってモスクワは大火となり、10月にナポレオン軍は脱却を余儀なくされた。帰途、ナポレオン軍は宿泊所の不足に苦しめられ、ロシア正規軍、農民、ゲリラ軍の追撃を受けほぼ壊滅状態となり、遠征は大失敗に終わる。ロシア軍は、撤退するナポレオン軍のあとを追ってナポレオン帝国に侵入した。

 この敗北を機に、ヨーロッパ諸国はナポレオンとの同盟を離れ、1813年、イギリス・プロイセン・オーストリア・スウェーデンはロシアと結び、第4回対仏大同盟を結成した。同年10月に始まった諸国民戦争と呼ばれるライプツィヒの戦いでは、プロイセン・オーストリア・ロシア同盟軍がナポレオン軍に大勝し、1814年4月にパリに入城した。同盟軍はナポレオンに年金を渡して退位させ、エルバ島に隠退させた。ナポレオンの息子への譲位は認められず、ルイ16世の弟がパリに帰り、ルイ18世として即位し、ブルボン朝が復活し、革命以前の体制に戻った。

 ルイ18世の反動的な政治は国内に多くの敵を作り出した。ナポレオン戦争後の諸問題を解決するためにウィーンで国際会議が開催された。これが、ウィーン会議(1814年9月~15年6月)である。ところが、参加国の利害の対立から会議は混乱し、ルイ18世復位への国民の不満が、ナポレオンのエルバ島脱出を許した。ナポレオンは15年3月にフランス南部に上陸し、支持者をくわえながら北上した。ルイ18世はベルギーに逃亡し、パリへ戻ったナポレオンは皇帝への復位を宣言した。ヨーロッパ諸国は第5回対仏大同盟を結成し、ナポレオンとの最終決戦に挑むこととなる。1815年、ベルギーのワーテルローで、ナポレオンはイギリスとプロイセンとの戦いに破れ、完敗した。復活した皇帝ナポレオンの支配が短期間で終わったことから、この一時的なナポレオンの支配を「百日天下」という。投降したナポレオンは、大西洋の孤島であるセントヘレナ島に送られ、この地で1821年、その生涯を終えた。

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【アメリカ合衆国大統領】リンカーンの目指した民主主義とは

温故知新 U25歴史講座:「エイブラハム・リンカーン」

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出典:ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons)

名前
エイブラハム=リンカーン

生きた年代(死没した年齢)
1809~1865

性別

出生地
アメリカ合衆国 ケンタッキー州

死没地
ワシントンDC

地位、称号、階級
アメリカ合衆国第16代大統領

親族
メアリー=トッド=リンカーン (配偶者)
ロバート=トッド=リンカーン (息子)

同時代に活躍した人物
勝海舟(武士、政治家)
土方歳三(新撰組)
徳川慶喜(江戸幕府第15第征夷大将軍)
明治天皇
ルイ=ナポレオン(ナポレオン=ボナパルトの甥)
ペリー(アメリカ海軍軍人)

パラメーターで分析「エイブラハム・リンカーン」

政治力4

 リンカーンの政治家としての政策の中で最も有名なのは、奴隷制度に対する者である。州議会議員時代、彼は奴隷制度に反対しながらも、奴隷制度即時廃止論にも反対していた。州によって相違があることを認めていたのである。その後、カンザス=ネブラスカ法の成立によって奴隷制度反対派のリーダーとなるわけであるが、その際には共和党の意見をまとめあげ、死後、合衆国の修正憲法に「奴隷制の廃止」という文言を挿入させることに成功している。

人望5

 建国以来、国王制を採用していないアメリカ合衆国にとって大統領とは、いわば国家元首である。リンカーンは親族が政治家であったわけではなく、彼自身も若い頃は様々な仕事を転々としながら独学で弁護士資格を取得し、さらに政治家として大統領まで登りつめた。彼の人望に満点をつけることに異論はないだろう。

指導力5

 アメリカ合衆国大統領は、軍部の最高責任者もかねている。その最高責任者として南北戦争に勝利した。この戦争の勝利は、奴隷制度の廃止という道徳的、倫理的な観点から評価されているのはもちろんであるが、今日世界に大きな影響を与えているアメリカ合衆国の存続を守ったという点でも評価されている。

知力4

 大統領選挙の共和党推薦候補に選ばれる際、対立候補の主張の矛盾を巧みに突いて見事勝利した。リンカーンの頭の回転の速さを象徴する瞬間であった。また、大統領になる前に彼は独学で法律の勉強をし、イリノイ州で弁護士資格を取得した。

演説5

 リンカーンと聞いて真っ先に「of the people, by the people, for the people」というワードを思い浮かべる人もいるだろう。これはゲティスバーグ演説の一部であるが、彼の言葉は自軍を鼓舞し、人々のモチベーションになっただけでなく、敵軍内部の不満をもつ人々までをも魅了した。エイブラハム=リンカーンの言葉は、それほど大きな力を持っていたのである。

政界へ進出するまで 

 1809年2月12日、トーマスとナンシーのリンカーン夫妻の間に男の子が誕生した。彼は、エイブラハムと名付けられた。後にアメリカ合衆国大統領となったエイブラハム=リンカーンである。ケンタッキーの田舎で生まれ、家族とともにインディアナへ、そしてイリノイへ移り住んだ。

 大人になった彼は独り立ちし、店員や粉屋の作業員、郵便局長を勤めながらもホイッグ党員としての政治活動を行った。1832年のイリノイ州議会選挙には敗れたが、2年後の1834年の選挙で当選し連続4期議員を勤めた。同時に彼は独学で法律の勉強をはじめ、1836年にイリノイ州で弁護士資格を取得した。翌年スプリングフィールドで弁護士事務所を開業し、弁護士としても活躍をした。一方、1830年代はアメリカ南北の溝が次第に深まっていった時期であったが、当時、奴隷制についてリンカーンは公的な発言はしていなかった。

北部自由州vs南部奴隷州

 アメリカがイギリスから独立して以降、工業で発達した北部自由州に対して、南部自由州は奴隷を酷使して大農園を展開していた。徐々に深まっていく両者の溝は、1850年代には妥協点のないところまでに達していた。その発端は、1840年代に獲得した西方の新しい領土に対して、奴隷制の拡大を認めるか阻止するかを巡る論争であった。

 1820年のミズーリ協定によって、ミズーリ準州(1803年にフランスから購入したルイジアナの一部)を奴隷州として州に昇格させる代わりに、以後北緯36度30分以北のルイジアナ地域については奴隷州を作らないと定められていた。1840年代末の時点では、自由州15:奴隷州15と均衡を保っていたのだが、カリフォルニアが自由州としての連邦への加盟を望んだためにバランスが崩れた。

 リンカーンは南部の奴隷制については容認していたが、その動きが北部の自由州にまで及ぶことには反対していた。南部諸州の奴隷制を認めたのは、奴隷即時廃止を訴えれば混乱を招くと考えていたからである。

 1854年に成立したカンザス=ネブラスカ法により、南北の対立はさらに激化することとなった。この法律は、ミズーリ協定を否定し、新たに連邦に加わる州が自ら自由州か奴隷州か選択できるとする者である。ほぼ同時期に、最高裁判所がミズーリ協定を違憲とし、自由州でも奴隷の所有を認めたドレッド=スコット判決を下した。これらは、黒人奴隷制拡大を支持する南部の大農園主を支持基盤とする民主党のブギャナン大統領任期(1861年〜1865年)の下で下された者である。

 一方、奴隷制度に反対していた自由州の政治家たちは、この動きに対抗するために共和党を結成した。当初奴隷即時廃止論にはあまり肯定的でなかったリンカーンも共和党に加わった。彼は、カンザス=ネブラスカ法の成立で目が覚めたと語っている。以後、彼は西部諸州での奴隷制禁止を訴えるスピーチを6年間で175回行った。

 1859年、奴隷解放は武力によってしか達成できないと確信した奴隷制即時廃止論者(アボリジョニスト)のジョン=ブラウンが、20名ほどの仲間とともにヴァージニア州(奴隷州)の、連邦が管理する武器庫を襲撃し一時占拠した。この蜂起はすぐに鎮圧されたが、北部では彼を讃える声も上がり、南部は奴隷反乱を恐れていたためにますます態度を硬化させていった。

 このような緊迫した状況下で、1860年、アメリカ合衆国大統領選挙が行われたのである。

大統領誕生と南北分離

 1860年にアメリカ合衆国大統領選挙が行われた。民主党は完全に分裂し、北部派はスティーブン=ダグラスを、南部派はジョン=ブレッキンリッジ(当時の副大統領)を指名した。保守的なホイッグ党や州境の穏健派などを集めて結成された憲法統一党は、テネシーを基盤にもつジョン=ベルを候補者に指名、共和党の候補者にはエイブラハム=リンカーンが選ばれた。選挙では、民主党の候補者は票を2分し、ベルは自由州、奴隷州の境界3州で勝利を収めた。当選したリンカーンは、南部9州では全敗であったが、北部では全ての州で勝利した。これこそが、当時の南北の対立を象徴していると言えよう。

 リンカーン当選の場合には連邦を離脱すると公言していた南部諸州は、次々と合衆国を離脱していった。サウスカロライナ、ミシシッピ、フロリダ、アラバマ、ジョージア、ルイジアナ、テキサスが合衆国を離脱し、アメリカ連合国を結成した。大統領にはジェファソン=デヴィスが選出された。南北戦争勃発後にはアメリカ連合国の構成州は11にのぼっていた。(ヴァージニア、アーカンソー、テネシー、ノースカロライナが加盟)

 リンカーンの当選から就任式までの4ヶ月、ブギャナン政権は分離への動きを阻止することはできなかった。南部諸州の離脱を避難したものの、当時彼の信用はほとんどなく、その発言も効力がないに等しかったのだ。

アメリカ史上唯一の内戦

 1861年、南部諸州がほとんどアメリカ連合国に加盟する中、サウスカロライナ州(アメリカ連合国加盟州)のサムター要塞の司令官ロバート=アンダーソンはアメリカ合衆国に忠誠を誓うと宣言した。敵地にありながら忠誠を誓ったサムター要塞の部隊に対して、リンカーンは、サウスカロライナ州知事に食料と水を補給する旨を告知した。州知事はそれを南軍(アメリカ連合国)の指揮官に報告した。南軍の判断は「サムター要塞の即時引き渡しに北軍が応じなければ、制圧せよ」というものであった。北軍は引き渡しを拒み、南北戦争が開戦した。

 戦争初期、両軍ともに戦争の準備は全く万全ではなかった。特に、南軍は新しく作った国の政府機能を1から創設しなければならなかったた、すでに政府機能が確立していた北軍の方が優位であった。また、北部は中央集権体制をとっていたのに対し、南部はそれぞれの州権が強く、加盟州の意見をまとめるのにジェファソン=デヴィス大統領は苦戦していた。加えて、北部の方が人口が多く、鉄道も発達していたために物資の補給も比較的容易であった。一方で優秀な軍の幹部が多く合衆国を離脱し南軍に加わったことは、南軍のアドバンテージであった。

 1861年5月、南部同盟政府は、首都をアラバマ州モンゴメリーからヴァージニア州リッチモンドに移した。鉄道路線の交通度が高かったことや、北部よりの地域の防衛に力を入れることで、連合国全体にヴァージニアの重要性を訴えることが目的であったと考えられる。南北戦争の主戦場は北部の首都ワシントンから、南部の首都リッチモンドを隔てるおよそ100マイル(160km)であった。

 南北戦争の大半は、両軍が向き合っての待機合戦であったとされている。そんな中、最初の主要な戦闘が起きたのは1861年7月のことである。北軍37,000人が、南軍35,000に攻め込んだ。南軍が押し返し、北軍は退却を余儀なくされたのだが、戦闘慣れしていない兵士の中にはパニックに陥り南軍へ突っ込んでいく者もいた。彼らは、この戦争が早期決着に終わると考えており、ワシントンから戦争の光景を眺めようと気楽な気持ちで参加していた。

リンカーンの目指す民主主義を守ったアメリカ合衆国

 次の大きな戦いとなった半島開戦では、北軍が南軍の首都リッチモンドまで後一歩のところまで肉薄した。マクレラン率いる北軍が南部への上陸作戦を実施した。軍編成において素晴らしい裁量を発揮したマクレランであったが、自軍が優勢であったのにも関わらず小勢であると思い込み、軍を極めて慎重に進軍させた。その様子に苛立ったリンカーンは、マクレランに攻撃を要請したが、彼はそれでも牛歩的な戦術を曲げなかった。

 一方、デヴィス大統領にヴァージニアでの南軍野戦指揮官に任命されたロバート=E=リーは、マクレランが敵勢力を過剰評価しがちなことを認識しており、南軍が先に攻撃を仕掛けた。北軍の将軍の中には、リー率いる南軍にはわずかな手数しか残っていないと言う者もいたが、マクレランはリスクを恐れて退却を命じた。リッチモンドまであと6マイルのところまで迫っていた。また、この戦いは「7日間戦闘」とも呼ばれた。

 南北戦争での最大の戦いと言われているのが、ゲティスバーグの戦いである。南軍は、北部地域を戦場に巻き込み、講和に持ち込むことを狙っていた。南北戦争のクライマックスとなったこの戦いは、1863年7月1日からの3日間で決着がついた。南軍のある部隊が、軽武装の民兵だと勘違いして北軍の部隊に攻め行ったことで始まった。民兵だと勘違いした部隊は、たまたま下馬していただけで実はライフルで武装した北軍の騎兵隊だったのだ。この出会い頭の偶然の戦闘が、一瞬にして多くの部隊を巻き込む決戦となり、南軍のリー将軍自身も主要な戦闘に引きずり込まれたのであった。3日間、南軍は大きな犠牲を出しながらも北軍を崩すことはできず、本拠地の南へと後退して行った。

 この戦いで勝利した北軍の士気は著しく高まり、一方で南軍の士気は間違いなく低下して行った。北部はゲティスバーグの戦い以降、経済が上向きとなり、鉄砲、弾薬、軍服などの軍需品も大量に生産していった。

 1864年、グラントがリンカーンに任命され北軍の指揮官に就くと、会戦で負けていても完全撤退せずに敵地に残ってそのまま粘り続けるというこれまでの将軍とは異なる戦法をとった。アメリカ西部での戦いについては、グラント将軍から引き継いだウィリアム=シャーマンがその有能ぶりを発揮し、アトランタ方面作戦で次々と南軍を破っていった。

 軍の士気も下がり、連戦で大きなダメージを負った南軍は再び盛り返すことなく1865年4月3日、ついにリッチモンドが陥落した。9日にはリー将軍が降伏して戦争は事実上終結し、5月26日、最後の南軍の部隊が降伏して南北戦争は終わりを告げた。

アメリカ合衆国の再統合

 戦後、勝利した北軍の、南軍に対する報復行動はほとんどなかった。南部同盟の指導者らは、一人として銃殺刑や国外追放になることがなかっただけでなく、その多くが戦前の経歴を回復した。アメリカ連合国の大統領であったジェファソン=デヴィスは、収監こそされたものの2年後の1867年の5月には釈放された。資産が没収されることもなかった。

 このような寛容な条件での講和がすすんだのは、リンカーン大統領がそれを望んだからである。南部同盟に加わった者たちについても、アメリカ合衆国への忠誠を誓えば恩赦を認めた。

 激しい内戦後、様々な混乱がありながらも驚異的な立ち直りをみせ、アメリカ合衆国はすぐに始まる帝国主義時代とやがて始まる二つの大きな戦争を経て、世界のリーダーとしての階段を上ってゆくこととなる。

奴隷解放宣言

 アメリカ南部にはおよそ400万人の黒人奴隷が住んでいた。彼らにとって、南北戦争は、「自由」を手にするための戦いになるはずであった。北部に住む黒人はすぐに募兵となったが、南軍は当初、黒人を入隊させなかった。

 1863年1月1日、リンカーンは奴隷解放宣言を発布した。合衆国に反乱する地域の奴隷は即時無償解放されることや、黒人奴隷が逃げ出して北軍に加わった場合、すぐに自由を与えるという内容であった。南部諸州の合衆国離脱の阻止が当初の戦争の目的だったが、この宣言以降、奴隷解放が戦争の目的であると見なされるようになった。

 南部の奴隷たちは、主人の命令に背いたり、仕事の妨害をしたり、脱走したりと、南部の経済を混乱させ、北軍の勝利に貢献した。

 1865年12月に批准、成立した憲法修正第13条により、奴隷制度の廃止が定められた。イギリス人によるアメリカ入植以来続いた奴隷制度は全土で禁止されることとなった。

初めて暗殺された大統領 

 1865年4月14日の夕方、リンカーン大統領夫妻は劇場で観劇していた。22時過ぎ、27歳の俳優ジョン=ウィルクス=ブースは、数人の護衛しかついていなかったボックス席のリンカーンを狙撃した。護衛が持ち場を離れた瞬間だった。銃撃後、「暴君は常にこうなる。南部の仇は撃ったぞ。」と叫んだという。

 瀕死のリンカーンは、向かいの下宿屋に運び込まれた。彼の意識は戻ることのないまま、憲法修正第13条の成立を見届けることなく、翌朝絶命した。後に判明した事実によると、リンカーン大統領の暗殺は、数名のアメリカ合衆国の指導者皆殺しにする計画の一環であったと言われている。グラント将軍やジョンソン副大統領にも尾行がつけられた。

 アメリカ大統領が任期中に暗殺されるのは史上初めてであった。混乱の中、当時の副大統領であったジョンソンが新大統領に就任し、リンカーンの推し進めてきた政策を引き継ぐこととなった。

 望まぬ形で最期を迎えてしまったエイブラハム=リンカーン。現在、石像となった彼はワシントンDCで私たちを見守っている。

 

明智光秀~『麒麟がくる』信長を裏切った本当の理由とは~

温故知新 U25歴史講座:「明智光秀が信長を裏切った本当の理由」

2021年2月に最終回を迎えることが決まった長谷川博己主演・NHK大河ドラマ「麒麟がくる」。当初帰蝶役であった沢尻エリカが突然降板し、川口春奈に急遽キャスティングが変更されたり、コロナウイルスによる緊急事態宣言で収録が一時中断するなど多くのトラブルに見舞われてきた本作。

ドラマ版は「最新の史実に基づく」とある。しかし文献の少なさから、光秀の生涯にまつわる説はひとつではない。

今回は文献を参照した上で、史実により近い観点から「明智光秀」を考察する。

 

明智光秀 像 
明智光秀像:WikimediaCommmonsより引用

名前 明智十兵衛光秀(あけち じゅうべえ みつひで)

生きた年代(死没した年代) 
おそらく1516年(永正十三年)~1582年(天正十年)

性別 
男
出生 
美濃国(みのこく・現在の岐阜県南部)にて1516年生まれ。
(所説あり。ここでは当代記を参照)

死没
山崎の戦い(摂津国と山城国の境・現在の大阪府三島郡本町山崎にて)

所属していた勢力 土岐氏→斎藤道三→朝倉義景→幕府奉公衆→織田信長

官位
従五位下日向守(日向:現在の宮崎県)

親族
 光兼(父・光綱であるとの説もある) 牧(母)光重(祖父)
玄宣(曾祖父・幕府奉公衆かつ連歌の歌人として著名)
煕子(正室)
光慶(長男)岸(長女) 細川ガラシャ(三女・細川忠興の正室)光安(叔父)左馬之助(光安の嫡男)

同時代に活躍した人物 織田信長/豊臣秀吉/徳川家康/斎藤道三/雪舟/ガリレオ・ガリレイ(伊)/マルティン・ルター(神聖ローマ帝国)/ウィリアム・シェイクスピア(イングランド)ほか


楊斎延一(ヨウサイノブカズ)の「本能寺焼討之図」
楊斎延一(ヨウサイノブカズ)の「本能寺焼討之図」:WikipediaCommonsより引用

「敵は本能寺にあり!!」

―天正十年(1582年)6月2日未明。草木も寝静まったころ、織田信長は突如として家臣・明智光秀からの襲撃を受けた。一万三千もの明智軍勢は一瞬にして本能寺をとり囲み、守衛を次々と突破していく。このとき織田軍はわずか100人であり、信長にもはや勝ち目はなかった。自らの死を悟った信長は、最愛の正室、濃姫(のうひめ)とともに寺に火を放ち、腹を裂いて自害した。燃え上がる本能寺が、あかあかと京の空を染めた―

主君として忠誠を誓ったはずの信長を奇襲して自害に追いやった明智光秀。当時天下統一まであと一歩のところであった信長を陥れ、遂にその名を天下に轟かせたようにみえた。しかし本能寺の変のわずか13日後、山崎の戦いにおいて羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)に敗北を喫し、その生涯に幕を閉じることとなる。この非常に短期間で終わった明智光秀の権勢は「三日天下」と揶揄されるほどだ。しかしながら、この本能寺の変によってその後の日本の歴史は否応なしに大きく動いていくこととなった。

パラメーターで分析「明智光秀」

(1)

指導力4(5段階で評価)

信長に仕えていたころの光秀は、各地の制圧を任され軍を率いることが多かった。持ち前の軍才と明晰な頭脳で多くの戦いを成功に導いた。ただし、丹波平定の際には長期におよび苦戦するなど完璧であるとは言い難い。しかしながらその指導力は非常に優れていたと言ってよいだろう。

人望4

戦国時代は動乱の世である。各地に戦国大名が群雄割拠し勢力拡大を目指してしのぎを削っていた。さながら今日の味方は明日の敵といった塩梅だ。主人、家臣を問わず騙しあいが横行したこの下克上の世で、勿論、光秀もしっかりと処世術を身に着けていた。

いくつか例をあげよう。斎藤道三、義龍に美濃の支配権を奪われ、居場所をなくしたときのことだ。光秀は主人であった土岐頼純(トキヨリズミ)の母の家系である朝倉氏を頼って美濃から越前(福井県)にうまく逃れた。そして移ったさきの越前では称念寺(ショウネンジ)の坊主であった薗阿上人(エンアショウニン)と親交を深め、連歌(レンガ)の腕に磨きをかける。この越前での20年近い生活で彼は盤石な人脈を築いた。これらの事実から鑑みるに、人望は十分にあったといえるだろう。更には京都に移ったのちも公家(貴族)の吉田兼右(カネミギ)、兼見(カネミ)親子と親しい間柄であったことが明らかになっている。そして何より、本能寺の変で信長を包囲した一万三千もの大軍を率いたのは、明智光秀、その人である。

政治力4

光秀は直接政治を行ったことはほぼないといえる。しかし諸国で群雄割拠する大名を支配下に置き、全国を統一する野望を持った信長が作戦立案をする際、光秀に相談をもちかけたことからも窺えるように、彼は頭脳として信長から深く信頼を寄せられていた。しかし直接手を下すことはあまりなかったため、光秀にだけフォーカスした伝記などはあまり残されず、後世に伝わるものは多いとは言い難い。

知力5

もともと単なる地方出身の侍であった光秀は偶然幕府に見初められて類いまれなスピードで昇進していく。なぜか。それは彼が非常な歌詠みのセンス高い行政処理力軍才を有していたからに他ならない。いわばマルチプレイヤーであったといってもよい。ずっと地方の辺境に身を置いていた光秀は、当然最初は足軽衆(武士と農民の間に位置する身分の低い武士)であった。しかしある日突然、晴れ舞台に立つこととなる。まず1つは貴族の間で催される連歌会への出席だ。これは地方の足軽には到底考えられない格式高い場であり、光秀も戦々恐々としたことだろう。しかし、ここで光秀は実に見事な句を6句詠み、その名を貴族社会に知らしめた。もとはと言えば彼の曾祖父も名高い歌人であり、その血を見事に受け継いだといもいえる。天性の芸術肌だ。

快進撃はとどまらない。彼は幕府の役人として仕事を始めたのち、膨大な量の訴訟問題を扱うようになる。そしてすべて裁く。その高い行政処理能力はやがて信長の目にも留まるようになる。キャリアマンとしても大変優れていた

さらに1570年(元亀元年)、織田軍と幕府軍がともに朝倉軍に戦いを挑んだときのこと。越前(福井県)に人脈と土地勘があり、戦の経験が豊富な光秀の存在は彼らに必要不可欠であった。その後に起きた姉川の戦いでは、見事織田軍は朝倉・浅井両氏を打ち破り勝利を手にしている。光秀の軍才は信長すらも唸らせるものだったのだ。

忍耐力5

彼が信長や足利義昭にその存在を認知され、日本史に大きく姿を現すのは彼が50歳を超えてからである。それまでの彼の人生は、お世辞にも華やかなものとは言い難い。むしろ苦難の連続であったといってよいだろう。幼いころから運命を共にし、固く忠誠を誓った主の毒死や、自らの一族の没落辺境での生活を20年近く強いられたことなどが、光秀にとってどれだけ辛く厳しい現実であったかは想像に難くない。しかし決して腐らず、その場その場でできることを地道に積み重ねた。その結果、高い能力を身につけ信長に見いだされていくこととなるのだ。

知られざる苦難の半生

明智城跡
明智城跡:WikimediaCommonsより引用
現在の岐阜県可児市・光秀出生の地と伝わる

1516年(永正十三年)、美濃国にて生まれたといわれる明智十兵衛光秀。かつて美濃を支配下に置いた土岐(トキ)氏の家臣である明智光兼のもとに生まれる。戦国の世ではあったが、当時はまだ室町幕府が存在していた。のちの江戸幕府などと同様に、この室町幕府でも1代、2代・・・と直系家族的に将軍の位の継承が行われていた。しかし1493年に起きた明応(メイオウ)の政変。これによって足利将軍家は二分されてしまう。東軍と西軍の2つに分かれた将軍家のどちらの肩を持つか。内部抗争が光秀の身近な場所にも巻き起こったのである。光秀の仕える土岐一族は不安定な時代に突入していく。土岐氏はかつては美濃で大きな力をもち繁栄した一族であったが、このころ既に斜陽であった。

光秀はその父、祖父とともに足利東軍の義澄(ヨシズミ)を支持。同じく義澄を支持する一派の主である土岐頼純(ヨリズミ)にはじめて家臣として仕えることとなる。ここで驚くべきはその年齢である。仕えた当時光秀がわずか10歳、主人である頼純は2歳の赤ん坊であった。

はじめて家臣として仕えた主人は自分と8歳も年下。大名と御家人というよりはさながら兄弟のような間柄であったのではないだろうか。ある意味、主と家臣という立場を超えた紐帯が二人の間には結ばれていた。事実、斎藤道三との三度におよぶ戦いでも光秀は必死に主人・頼純を守り抜いたのだ。光秀が20歳の時に起こった戦いでも、12歳の主君頼純を弟のように守り抜いた。頼純もまた光秀を兄のように慕っていた。少年期・青年期の時間の多くを頼純のもとで過ごした

鷲林山常在寺(ジュウリンザンジョウザイジ)所蔵の斎藤道三像
鷲林山常在寺(ジュウリンザンジョウザイジ)所蔵の斎藤道三像:WikipediaCommonsより引用

しかしこの頃になると、斎藤道三の美濃に持つ影響力はますます大きなものとなる。 土岐氏の美濃支配は、道三の登場によって危機的状況に追い込まれていく。 1544年(天文十三年)、四度目の戦いを道三に仕掛けるも敗北。 すでに美濃は道三に支配され光秀らの居場所はなかった。 その二年後に主君・頼純は道三と和睦を結び、その条件として道三の娘を嫁にとることとなった。 光秀31歳、頼純23歳のことである。 この若い主君にとって、宿敵の娘を嫁にとるという決断が苦しいものであったことは想像に難くない。 まるで弟のようであった主人のこの決断は、光秀の眼に果たしてどう映ったであろうか。

1547年(天文十六年)11月。頼純、急死。

死因は誰も突き止められなかった。斎藤道三の毒殺が疑われたが、強い支配力を持った彼に歯向かえる者はどこにもいなかった。幼少の頃から運命を共にしてきた主人を失った光秀。弟のような大きな存在を失った悲しみと喪失感がどれほどのものだったかは想像に余りある。光秀32歳でのことである。

斎藤道三らによる美濃支配は強固になる一方で、光秀ら土岐一族の居場所はなくなってしまった。美濃に彼らの支配力はもう既になかったのだ。彼は仕方なく、縁を頼りに戦国大名・朝倉氏の本拠である越前(現在の福井県)に移り、実に10年におよぶ隠居生活を送ることになる。この時すでに光秀は41歳。主人を亡くし、敵勢力に自らの本拠地も奪われ、遠く辺境の地でいつ終わるとも知れない隠居を強いられることとなった。

越前に渡った光秀。道三との四度に及ぶ戦いで経験を豊富に積んでいたため、敵征討の前線基地であった舟寄城(フナヨセジョウ)に身を寄せることとなった。とはいえ、この生活は光秀にとって非常に空虚なものであっただろう。年齢もすでに若くはない。越前に来て娘を三人授かりはしたものの、男子は生まれなかった。かつて幕府奉公衆(幕府の武力担当職)に取り立てられたほどの名門の家系は、自分の代で終わる。おまけに代々大切に繋いできた美濃の所領はもうない。非常に苦しい現実であっただろう。しかしこれが戦国時代なのだ。弱き者は滅び、強き者だけが生き残るのである。

類まれな大出世・遅咲きの戦国武将

―契機は突然にして、訪れた―

時の将軍足利13代目・義輝(ヨシテル)が京都にて暗殺される事件が起こった。1565年のことである(永禄の変)。足利幕府の存続を脅かされた大事件である。これにより足利幕府はさらに衰退。幕府を運営するために必要な人手が大きく減ってしまったため、急遽光秀に声がかかったのである。地方出身の単なる足軽に等しかった光秀が、突如として中央政治の場に転がり込んだのである。京都には室町(足利)幕府や朝廷(天皇の住まい)がある。言ってみれば当時の首都である。これは光秀にしてみればまさしく晴天の霹靂であったといえるだろう。このとき光秀実に50歳であった。

こうして1568年(永禄十一年)、遂に光秀は京都の地を踏んだ。当初は幕府の役人といえども足軽衆(アシガルシュウ)というあまり高くない地位に属していた。しかしここから光秀の驚くべき出世劇が始まる。

冒頭に光秀の曾祖父は名高い連歌の歌人であったと書いた。その名も明智玄宣。彼の名は京都の貴族の間でも広く知れ渡っており、ひ孫であった光秀が貴族主催の連歌会に招かれることの理由となった。地方出身の足軽衆に過ぎなかった光秀が、このような晴れやかな場に招待されることは極めて異例であった。しかしそんなプレッシャーをもろともせず、実に見事な詩を六句披露している。光秀の存在が貴族や上級武士に徐々に認知されはじめた。

続いて1569年(永禄十二年)の出来事である。将軍義昭の滞在する本圀寺(ホンコクジ)を三好氏が襲撃した。幕府が滅びかねない危機的状況である。このとき本圀寺に立てこもり将軍を守り抜いた十三人の侍。このひとりに光秀がいた。結果として将軍は無事であり、幕府転倒の危機は寸でのところで回避された。この光秀の活躍により将軍の光秀に対する評価は格段にあがることとなり、彼は御家人の中核を担う幕府奉公衆に大出世。光秀の地位は盤石なものとなったのだ。翌年には待ち望んだ長男である光慶(ミツヨシ)も生まれている。彼の人生が遂に大きく動き出したのだ。

信長との出会い

こうして彼は将軍義昭のもとで多くの仕事を任されるようになった。例えば大量に寄せられた訴訟処理や、朝廷の対応役である。このころになると光秀は一人で幕府と朝廷の調整役を裁くという大任を任されていた。ここに目を付けたのが信長だ。信長は当時、将軍義昭の権力を後ろ盾に付けることによって自らの権力の更なる増大を目論んでいた。つまり将軍義昭と近しいポジションにいたのだ。当然、彼は信長の目に触れることとなる。次第に、信長が戦術を考案する際には彼の相談を仰ぐようになったのだ。

―1571年(元亀二年)比叡山焼き討ち事件―

信長の残虐さを物語るうえで必ず引き合いに出されるこの事件。ここでも光秀は信長と軍事行動を共にし、大きな手柄をたてた。通説では彼は比叡山焼き討ちに反対したとあるが、実際はそうではない。それが証拠に、この焼き討ち後に彼は信長から志賀軍を与えられ、坂本城を居城にしたのだ。光秀が第一線で活躍した褒美として。

坂本城址公園における明智光秀像
坂本城址公園における明智光秀像:WikipediaCommonsより引用

前述の通り光秀は幕府奉公衆として義昭に仕えていた。しかし一方で信長に重用されその結びつきをどんどんと強めていった為、このころになると両属状態になっていた。しかし結果として光秀は・・・・信長側を選んだのである。なるほど光秀は信長の家臣となれば近江坂本城主に取り立てられ、入京からわずか3年にして異例の出世を成し遂げることとなる。これは義昭のもとで奉公衆を続けていても決して叶わない偉業であったはずだからだ。

こうして美濃からはぐれた末に辺境の越前を放浪した光秀は、中央政治の舞台を経て遂に城を持つ大名にまでのしあがったのだ。このとき光秀は56歳。武将としてはあまりに遅咲きであった。

1573年(元亀四年)天下統一を目論む信長により15代将軍・義昭が京都から追放された。これにより将軍権威は失墜し、室町幕府は事実上滅亡した。義昭のもとを完全に離れ、信長に忠誠を誓っていくのだった。信長の寵愛を受け、彼の武将としての人生は満風を帆に受けて動き出したように見えた。しかしここに苦難が立ちはだかる。

光秀は天下統一を目論む信長に丹波(現在の京都府北部から兵庫県中部にまたがる地域)の平定を命じられた。当初はいとも簡単に制圧出来るものと思われたが、後々非常に時間を要することとなった。そして丹波の敵勢力に敗北を喫してしまう。しかも同じ年、戦に出向いた先で赤痢(セキリ)を患い、既に61歳を迎えた老体は生死をさまようこととなった。加えて4か月後には光秀の妻が病に倒れ帰らぬ人となったのだ。この立て続けに起きた悲劇が彼に与えた影響は計り知れない。1576年のことであった。

光秀の裏切りと本能寺の変

順風を帆に受けてようやく動き出したように見えた彼の武将人生。しかし彼と信長との間の関係に亀裂を入れる重大な出来事が起こることとなる。全ては信長の大いなる野望に起因していた。中国大陸統一である。

当時国内を統一しかけていた信長の次なる欲望は、(ミン、中国大陸の王朝)制服であった。甚だ突飛に見えるこの野望を、信長は大真面目に実行しようとしていたのだ。明に進軍するとなると、前線で戦を指揮し舵をとるのは当然、光秀らとなる。光秀だけではない。ようやく生まれた彼の息子も戦地に赴くことになる。圧倒的な明の軍力に到底敵うわけもなく、野垂れ死ぬことは自明であった。

それだけではない。信長は当時四国を支配していた長宗我部(チョウソカベ)氏を滅ぼそうとしていた。長宗我部氏と光秀は同盟関係にあり、死なれては信長政権下における明智の立場は圧倒的不利となる。

勿論光秀は信長を説得することも試みただろう。しかし信長は反論する年老いた光秀に殴る蹴るの暴行を加えるなど、到底話の通じる相手ではなかった。

そもそも光秀が本当に欲したものは、何だったか。

権力?地位?名誉?そうではない。

彼が本当に望んだものは、明智一族の将来にわたる安寧であったのだ。

既に67歳となった我が身はもう長くはないだろう。しかし、彼には守るべきものがあった。娘や息子が自分の死んだあとも幸せに繁栄していくこと。一度は潰えたように見えた明智の家系を未来に繋いでいくこと。それが男として、武将としての彼の責務だったのだ。彼が一番欲しかったものは、娘や息子の笑顔だったのかもしれない。

戦地で息子を無駄死にさせては絶対にならない。長宗我部氏という同盟がなくなればまだ幼い息子は到底やり抜いていけない。

天正十年(1582年)6月2日未明。明智光秀は信長の待つ本能寺を奇襲した。信長に腹を裂いて自害させ、寺は燃えさかった。その炎は、あかあかと京の空を染めた。